「小平太!」

 思わず、肩を掴む。
 そうやってつなぎ留めないと、目の前の級友が闇に溶けてしまいそうだったからだ。掌に堅い骨の感覚と、いつものように高い体温を感じ取ってほっとする。
 葉っぱだか枝だかを思う存分絡めた、拙い鳥の巣のような頭がゆっくりこちらを向く。月明かりに、白目がぐりぐりと光っている。それが数瞬柔らかく解けた、と思うと小平太の肩に乗る手に高い熱が被さるのを感じた。目を落とせば、片方の手が長次の右手を覆っている。とん、とんと軽く撫ぜるように叩かれて、あんなに堅く掴んでいたはずの長次の指は解けて肩から落ちてしまった。
 え、と思って顔を上げれば、もう小平太の顔は鳥の巣の向こう側に隠れてしまっていた。そのざんばらの髷を揺らし、彼は叫ぶ。

「そういうことだ、鴉!もう去れ!」

 獣の咆哮にも似た、野太い声だった。同じ年の子どもであるのに、長次の知っている誰の声より、腸に直接叩き込まれるような声を出した。
 見えない津波のようにその一言が二人と鴉の間を渡り、静謐な森の奥へと吸収されていく。
 答えるかのようにかあ、と今度は何とも間の抜けた、同じ鴉とは思えぬほど小さな一声が上がる。一羽が音も無く飛び上がった。と、つられるようにしてまた一羽、二羽と黒い体が頭上に消える。そのまま取り巻いていた鴉は次から次へと舞い上がり、あれよあれよという間に二人の周りには一羽の影も無くなってしまった。
 静けさが、じんと耳に響いて痛い。
 そのまま小平太まで飛び立っていってしまいそうで、今度こそ長次はしっかり掴もうと手を伸ばし、

「長次」

 向き直った小平太の前で、その手はむなしく宙を切った。

「黙ってて、ごめん」

 小平太は下を向いている。

「…お前は」

 すう、と息を吸う。首を上げ、真っすぐ前を向いた小平太の、まん丸の瞳とかち合う。

「俺の親父はな、天狗だったんだ!」

 天狗。
 この級友が人外であるのはさっきから十分見せつけられていたが、とっさのことに長次は何も反応を返せず固まる。

「え…」

 ゆっくりと小平太の唇の両端が上がる。首を一振り、二振り。

「もう、帰らなきゃ…」

 一転、息だけを使って囁かれた言葉。帰る、というのが自分たちのあの長屋で無いのは明白だった。
 考えるより先に、長次は手を出した。
 ぎゅっと、今度こそ今度こそ小平太の泥だらけの手首を捕まえる。

「…長次?」

 何と言えばいいのか、分からなかった。分からなかったからただ、長次は下を向いて、手首を掴んだ手に力を込めた。
 どこかで、姿は見えねども鴉が一声放った気がする。まるで、小平太を呼んでいるようだった。
 だが、視界に入るこれまた泥だらけで、ひっかき傷だらけの裸足は動かない。大丈夫、この手首さえ離さなければ。まるで十年来の仇でも見ているかのように、ぐっと眉間にしわを寄せて、長次は小平太の足を睨み下ろした。
 また一声。さっきよりも遠いかすれ声が飛んだ。

「長次」

 自分の名を呼ぶ声は、何時も通りの高い、子どもの声だった。
 長次には分からない。どうしてこんなに不安になるのか。小平太からは何時も通り、土の匂いと汗の匂いがして、掴んだ手首の下にはもう筋肉を纏い始めた肉と骨が確かに在るのに。だけれども今彼らの周りを満たす青い闇が、小平太とその空気の境目をぼやかしているような気がした。今にもその背中から真っ黒い翼がにゅっと生えて、手の届かない高みに消えてしまうような気がした。喉の奥にせり上がる、この引き攣るような酸性の不安を吐き出そうとして薄く口を開く。
 だが、その奥にスタンバイしていた言葉がなんであったにせよ、それは外気に触れた途端に崩れてしまい、長次の喉は意味も無くひゅうと鳴っただけであった。
 代わりに、ただ首を振る。

「…いいの?」

 遠慮がちに呟かれた声に、何か答えようとして顔を上げれば、そこには恐ろしいほどに真剣な顔がある。この暗さで見えるはずも無いのに、目の縁が赤いような気さえした。青白く照り映える白目の中央で、暗く円い海に、満月が一つずつ浮かんでいた。静かで、波も無く、そこだけ別の世界のように在った。
 よく見れば、小平太の輪郭は自分と同じようにただ暗くて見えにくいだけであったし、背中に翼など生えてはいなかった。
 ふうっと漏れた息とともに、あの嫌な不安は鼻から抜けた。

「…帰るぞ」

 それだけを言って、踵を返す。
 繋がっている小平太がいきなりの事にバランスを崩したのが分かったが、構わず進みだす。小平太もすぐに体勢を整えた。
 手首はしっかりと握ったまま、若干早足で、森の中を引き返す。まるで手負いの大きな猪が突っ走った跡のようにあちらこちらに残る真新しい跡。それを辿れば学園の方向を知るのは容易かった。
 草履履きの足が、柔らかな土を踏む。ざらりとした小石が稲藁を通してまだ柔らかい足裏に食い込む。
 裸足の小平太はさぞ痛かろう。
 とはいえ、彼はしょっちゅう裸足で駈けまわっているゆえに、足裏はどんなに洗っても堅く黒ずんでいるのだったけれど。
 無言で長次は歩いた。
 引きずられて歩く小平太も無言だった。
 もう鴉の呼ぶ声は聞こえなくなっていた。
 夜の森では恐るべき相手である山犬も、今夜ばかりはうろつくのを控えているのだろう。ただ静寂という音が満ちるだけの、月の綺麗な晩であった。
 次第に長次のそれこそ握りつぶすかのようだった握力が緩み、ただ軽く手首の周りに輪を作るだけになってくる。
 小平太の一歩が段々と大幅になり、最初はぴんと張っていた腕がたるむようになる。
 そうして二人の少年はほぼ横に並び、獣道というには広い木々の隙間をただ黙って歩いた。お互い走ってくる時には夢中だったためかあまり感じなかった距離だが、こうして歩いているとどこまでも同じような景色が続く。道には自信があるが、変わらぬ景色に心細さが次第に募る中、右手のなかの熱だけが確かにあった。



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