ふと目前の藪が切れた。
と思えば彼ら二人は長屋の近くの庭にたたずんでいた。人気は無く、誰ぞのいびきも聞こえない。
燈火は貴重であるから、庭から広がる長屋はどれも影に沈んでいる。だが、一点だけ厠の傍にある常夜行燈が温色の灯りを抱いていた。
その光を見た時、長次の肩からすうと力が抜けた。と、同時に小平太の足が止まった。
急に引っ張られた肩に何事かと振り返れば、白い歯がきらりと月光に光った。もうただ添えているだけだった手首が振りほどかれる。
「私は嬉しい!」
そのまま天を仰いだかと思うと、小平太の遠慮一切無しのまんまがぶつかってきた。思わず長次が数歩前によろめくのもお構い無く、彼は首に腕を絡ませてひっひっひと照れたように笑う。
「いいんだな?!私はまたあそこに戻っていいんだな!?」
背の低い小平太がぶら下がるせいで、少々息苦しい。
「こら、離れろ」
そう言ったが小平太が離れる気配は無く、ついには後ろ向きに尻もちをついた。振り仰いだ先に、月と息詰まるほどの一面の星がある。
よかった、よかった、ともう文脈も何も無く繰り返す小平太のごわごわの髪の毛を頬に感じながら、長次はゆっくりと夜気を吸い込む。
「よかった」
低い声で自分もそう呟けば、汗と泥の匂いに混じって清々しい夜露の匂いがしたが、いつもよりも鼻につんときたのは気のせいだったか。
何が何やら分からないが、自分はどうやら随分と大きな決断をしたらしい。もし追いかけなければ、小平太とはもう会えなかったのかもしれない。よかったよかったと半分涙声で言い続ける小平太に抱きつかれながら、今さらにしてそうした胃の腑が冷える様な理解が追いついてきた。
そうしたら、長次の夜着をぐちゃぐちゃにしながら胸のあたりに引っ付いている小平太が何だか、どうしようもなく小さい生き物のような気がして、長次はゆっくりと壊さないように気をつけてその背を撫でるのだった。
目を上げたところの空に、一筋、巨大なよばい星が鮮やかな尾を引いて駈ける。燃え尽きるじゅっという音すら聞こえてきそうな、刷毛ではいたような明るい尾であった。
「小平太、上」
ぐずぐずと鼻を鳴らす音が止んで、「え」と素っ頓狂な、むしろこの場では間抜けともとれるような返答が返ってきた。
「空」
こてん、と長次の横に転がるようにして寝転がった小平太は言われるがまま空を見たが、真珠色に輝く月と星空以外、何も変わった所は無い。
「どうした?」
「流れ星が…」
言葉を途中で切り、まぶしいばかりの夜空を睨む。だが、どんなに見ても星空はしんと静まり返っているだけで、あの大きな尾は何処にもない。
「流れ星?」
小平太も数瞬じっと目を凝らしたが、もう飽きたと見えてぱん、と両手を地面に振り下ろした。体はゴム仕掛けのように跳ね上がり、若干両足が飛び上がる程の勢いをつけて彼は立ちあがる。
もぞもぞと夜着のたもとを整えつつ長次も起き上った。そのまま部屋に戻るかと思えば、思い出したかのようにこちらを振り返った。
「でもさ、どうしてばれたんだ?普通にしてただろ」
「…お前…あれを普通と言うか」
「何が」
「人間は夜は眠るものだ。体力には限りがある」
「そうなのか?だけど文次郎とかはしょっちゅう起きてるぞ」
「あれは、無理をしてる」
指を立てて瞼の下を叩けば、言葉にせずとも意図は伝わり。「なるほど」と小平太はぐりぐりと目を動かして大げさに頷く。
「このままではそのうち皆に知れるぞ」
「うん、それは困ったな。どうしたらいい?」
至極無邪気に聞いてくる同室者に、どこか遠い頭痛を感じたのは何もさっき押し倒されて頭を打ったせいだけではあるまい。
「…二日に一回は長屋に帰って寝ろ」
「えー、せめて三日」
「二日」
「だって私は五日はいけるぞ」
「二日だ」
「長次のケチ」
騒ぎ立てれば、先生方に見つかってしまう。段々音量が大きくなってきた小平太の口をむんずと抑えれば、後は長屋の部屋へ戻るだけだ。
もしかすると、人間とは何か他にも色々教えてやらなければならないんじゃないか。面倒くさそうな予感に一つ溜息を落とし、長次はそのまま連行していった。
翌朝、縁側から泥だらけの足跡が真っすぐ小平太と長次の部屋に続いていて、二人揃ってお小言と廊下掃除を仰せつかったのはまた別の話である。
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