すると、不思議なことが起こった。
 夜着に包まれた小平太の全身が縮んでいくのだ。否、もしここに傍から眺める者が居たのなら、彼には何一つ変化は見えなかったはずだ。ただ、うずくまって目を閉じている少年が一人。動きは絶えて無い。
 だが、小平太はびくり、と体を強張らせた。確かに自分の体内と外界との境目である身体意識が、確かに徐々に体の中心へと狭まって行く。縮むと同時に密度を増す体は、段々と中へ、下へ押し込められて行く。小平太と言う生き物の自意識が、地に繋がった両の掌へと、ゆっくり集中していくようであった。
 そうして普通の子どもの体格であった彼が、この春生まれた小熊の大きさになり、じっと穴倉に潜む兎になり、ついには尻尾を丸めて縮こまる野鼠になり、ちっぽけな小石一つのサイズになってしまうと同時に、彼は段々と人の体から解けていく。
 両の掌から、彼という意識が地面に沁み出し、雨水がゆっくり腐葉土に吸い込まれるのと同じ速さで地層に染み渡っていく。絡まりあう種々雑多な木の根、その一本一本をエネルギーの塊となって駆け抜けていくようであった。
 地表に残る『小平太』が何処までも小さくなっていくと同時に、土の中の『小平太』はどこまでもどこまでも、薄く薄くみずからを溶かしていく。希釈され、拡散したその意識は、地表に残った体を中心としながら、地下水に沁み込み清水に溶け込みその範囲を広げている。最早、小平太と言う人間、或いは天狗は残っていなかった。腕は鬱蒼と交差しあう何千もの木の枝であり、体は沢に転がる岩であり、目は幾万と土の隙間に潜む微塵の、幾億個もの目である。
 いつしか、彼は山の一部となっていた。
 ただ暗い瞼の裏を見ていた視界に、一声放たんと嘴を開く鴉が見え、その黒羽が遮る月光が透けて見え、深夜の騒ぎに寝ぼけた小鹿の濡れた瞳が高速で万華鏡のように移ろってゆく。風に揺すぶられる頼りない梢や、何かの爪痕が深く刻まれたかさついた樹皮の間を、一羽の蛾が不格好な羽を広げて前へ飛ぶ。地中をひっかく鼠の爪先の音に驚き、ちょうど鼻先を出したひめもぐら。それら幾つもの景色を、彼は同時に見ていた。
 万物が、一緒くたの濁流となって小平太の中を駆け抜けていくようだ。
 それは例えば、全く光の差し込まないすすきやヨシの中を、一条の光を掲げながら走り抜けるのに似ていた。生身の時よりはるかに多くの情報が流れ込んでくるのだが、それでも山全体を即座に把握するには及ばない。もし彼が純粋な天狗であればあるいは、たちどころに千里を見れたかもしれないが、生憎のところそこまでの力は無いのだ。
 逸る気持ちを抑えつつ、ただ白い夜着の姿を探しながら、小平太は意識をありとあらゆる方向に飛ばしていく。
 と、そこへ。
 草履だけをつっかけた、二本のまだ細い足が見えた気がした。
 長次!
 ぶるり、と一瞬前まで微動だにしなかった体が跳ねる。と、同時に彼は再び人型に戻り始めた。散らばっていた意識が、掌に白熱の光点を作りながら一極化し、どっと流れ込む。
 そして極限まで矮小化していた身体感覚が、一気に膨らんでいく。
 それはあっという間であった。すう、と息を吸えば、もう彼は何処とも知れぬ森の片隅にうずくまっていた。と、まだ熱い気もする掌を握りこみ、ばねのように立ち上がる。足は力強く地面を蹴り、前へ。

「長次!待ってろよォォォォォ!」

 雄たけびを引きながら、再び暴風の勢いで小平太は藪に突っ込んでいったのだった。



 長次はとりあえず困惑していた。
 あまりに同室者の体力が底なしなので、ここ最近うすら怖い気がしていた。長次が分かる範囲では、ここ4晩は部屋に帰ってきていない。なのにまったくつかれたふうも見せず今晩も元気に特攻していこうとするので、思わず呼びとめたのだ。
 そうして他に上手い言葉も見つからず、結局直球で聞いてみたら、いきなり切羽詰まった顔をして飛び出して行ってしまった。
 その速かったことといったら。
 慌てて追いかけようとしたら、もうどこにも彼の姿は無かったほどだ。だが、確かに様子がおかしかった。このまま放っておいてはいけない、迎えにいかなければいけない、と長次は珍しく使命感のようなものを強く感じて、今日に限って人気のない学園の裏手に入り込んだのだった。
 幸い何も考えていないまま走っていたようで、踏み倒されたり枝を折られたりした茂みがあちこちにあった。
 忍びらしく痕跡を残さぬように進もう、などと変な気を回す奴でなくてよかった。内心ほっとしながら、ともかくその破壊の跡を辿ってみたのだが、どうも途中でその目印も怪しくなってしまった。本当にこちらでいいのか分からないし、どんどん森も深くなってくるし、どうにも進みあぐんでいたところに一羽の鴉が舞い降りたのが数分前。  夜目が利かないはずなのに、珍しい。
 もしや、羽に怪我でもして飛べなくなってしまったのかと手を伸ばそうとした瞬間、その鴉は耳をつんざくような大声を上げた。
 それからだ。ありとあらゆる方向から羽音が響いて、あれよあれよと言う間に長次の周りが鴉で埋まってしまった。
 その数十羽もの鴉が今、長次を四方から睨みつけていた。
 自分の腕の長さほどもあるような体を、すべすべと月光に照らしだした鴉が地面から見上げている。目の前の枝にも止まっている。ばさりばさりと、また一羽舞い降りてきた気配がする。
 豆粒のような、だがぎらぎらと燃え盛る赤い目が何対も、長次にじっと注がれていた。
 もしかしてねぐらに踏み込んでしまったのだろうか。
 そっと下がろうと後ろを見たところで、闇にはやはり赤い炎がびっしり浮かんでいた。
 ガア、と一声、鋭い啼き声が放たれる。
 途端に四方八方から同じくらい激しい勢いのだみ声が湧きあがった。首を上下に振りたてている鳥もいる。羽を広げて威嚇をする鳥もいる。
 いくら相手は鳥だろうと、あの太い嘴で突かれれば痛かろう。枝をしっかと掴む足爪だって、随分と鋭そうである。本能的な恐怖から長次が後ろずさった。
 その瞬間に激しさを増す啼き声。
 もしも眠っていたところを邪魔してしまったのなら、立ち去ろう。雛をどうこうしようなど、露ほどにも思っていないのだから、頼むから。だが、退路はすっかり断たれてしまっていた。進むも鴉、戻るも鴉。体格の大きい人間の自分を怖がる様子など全くない。
 そっと懐を探ったが、なにせ慌てて出てきたために武器になりそうな物など何もなかった。
 しょうがなく、足元の小石を拾う。
 しかし、それがいけなかった。いざとなれば投げつけられるように、と構えたのを見るや否や、鴉の昂奮が最高潮に達したのだ。ひと際高くなった鴉の声が鼓膜を埋め尽くす。何匹かが宙に舞い上がった。
 そら来るか、と石つぶてを握る手に力を込めた、その時。



「待ったァァァァァァァァァァァ!!!!!!!!!!!」



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