今までの喧しさが夢かと思うほど、冷たく静まり返った森の中、小平太はたったひとり立ちつくしている。

「今、あれらは何と云った…?」

 つい数瞬前なら確実に声高い鴉の叫喚や羽音にかき消されていたはずの音量が、湿った空気の中を容易く泳いで自分の耳に戻ってくる。
 ついで物事の理解が襲い来た。毛穴から汗が噴き出る。

「鴉ッ!」

 慌てて呼べど、返ってくるしわがれ声は一つも無い。
 わんわんと木々にぶつかって反響する自分の声以外、ひたすらに夜のしじまが広がる。
 そこへほんの微かな羽ばたきを聞いた気がしては、と上を見れば今しも丸窓のような満月の上をゴマ粒のような大きさの鳥の影が横切った。天狗の卷族である鴉達の翼は並みのツルより強く、既に声が届く距離ではない。続いてもう一羽。
 先ほどまで周りにあれほど集まっていた鴉達は、今や総出で小さな少年の姿を、それこそ血眼で探しているのだ。小平太には鴉達が遥かな高みから、あるいは地面すれすれの木立の中を突っ切り、広くは無い裏山の森の中を捜しまわっているのが感じ取れた。
 悪いことに今夜は満月だ。
 鳥の夜目でも、白く浮きたつ寝巻の色はよく見えよう。

「どうしよう…」

 そうして、一羽でもその覚束なげに森を往く姿を捉えたら。鴉達は間違いなく長次を放っておきはしないだろう。不吉極まりない最後の言葉が、少し前の母上の心配げな声と同じように耳元で何度も何度も蘇ってきた。
 鴉達よりも早く、長次を見つけださなくてはならない。そして、少々先走り過ぎる感のあるあの鳥たちに、しっかりと云ってやらねばならない。
 友人の欠けた学園になど、意味は無い。
 また、じわりと目の端に熱い水分を感じた。だが、今度はそれが地面を濡らすことは無かった。
 その前に、小平太の体が再び地を蹴っていたからだ。
 何としてでも、鴉達より先に長次を見つけなければならない。くるり、と体を常人ならあり得ないような急角度で回転させ、元来た道をひた走りに走り始めたのだが、いくらも行かないうちにばたん、と足が止まってしまった。
 めくら滅法走ってきたため、自分の走ってきた道順が思い出せないのである。
 もちろん、学園の方角の大体の見当はつく。
 だが、真っすぐ森を突っ切って学園に戻った所で、長次に会えるとは限らないのではないか。めちゃくちゃに走った小平太の跡を追いかけたなら、恐らくこの広い森でとんだ見当違いの方向に居る可能性だってあるのだ。
 足には自信がある。
 見つけるまで森を隅々まで走りまくる、というのも一つの手段だろう。
 だが、小平太の眼はたった二つ。数を恃んで空から探せる鴉より先に人間の子ども一人見つけるのは、いかに体力には自信のある小平太でも無謀な挑戦であることは分かる。体は一刻も早く走りだして、長次の方に駈けつけたい。こうしている間にも、鴉が先を越しているかもしれない。だけど、それではだめなのだ。
 そもそも、今夜も衝動のままに走りだしてきたせいで、長次が自分を追いかけてしまったのだから。
 体の思うように動き回るだけでは、だめなのだ。
 小平太はぎゅっと拳を握りしめて、今にも飛び出してしまいそうになる心を抑えた。

「どうしたらいい?…長次だったら、どうしてる?」
 じめついた腐葉土の上に胡坐をかいて腰をおろし、小平太は必死に頭を絞った。すぐに立ち上がろうとしてしまう足首を全身で抑え込むように猫背になって、彼はうんうんと唸る。小平太の記憶の中にあるのは、威丈夫で力の強かった父から聞いた一言である。
 昔昔のこと、小平太は一人ワラビをとるために林に入り、うっかり帰り道を忘れて夕刻までさまよった事がある。だいぶ暗くなって、やっと、夕飯の煙が里から立ち上がっているのを見たときは随分とほっとしたものだ。
 その日の夕餉、今日一日の冒険を聞いた父親は、天狗が道に迷うとは情けない、とまだ小さかった小平太のつむりをぐりぐり撫でながら笑い飛ばした。そして、自分なら鼠っこ一匹がどこで昼寝しているかまで分かると言って胸を張っていた。

 もともと、天狗とは識る者である。
 四方千里を見通し、風を読み、地脈水脈を辿り、妙薬秘薬の在り処を須らく知るのが天狗の天狗たる由縁だ。

 もし父の言うことが本当ならば、自分にだって同じことができるはずだ。
 だが悔しいことに、一体どうやって知るのか聞いたことがない。いや、聞いたのかもしれないがすっかりそんな記憶は抜け落ちている。何か道具が居るのか、それともマントラか。
 なんであの時ちゃんと聞いておかなかったのだろう。すごいすごいと、無邪気にぶっとい腕にぶら下がっているばかりではなく。
 だが、後悔はそもそも彼に向いていない。うーんうーんと考えているうち、小平太の顔付が変わってきた。もともと、行動するタイプである。道が無ければ、藪に突き進んでみるのが信条であった。
 ふんっ、と鼻息を一つ吐く。
 大体、父も豪快な人である。七面倒くさい道具立てだの、呪文だのを使う人には見えなかった。
 要するに集中すればいいのだ。
 卷族の中でも一番下っ端の鴉などに、曲がりなりにも天狗の自分が負けてなるものか!
 また一羽、黒い影が月の下端をかすめていったのを見ながら、彼はふうっと息を丹田の方から押し出していく。腹から出ていく息と同じくして、視界からも光を追い出すように、ゆっくりと目を閉じていく。
 両手を地面に押しあてれば、細かな泥の粒子が爪の隙間に入り込むのを感じる。生きた土の匂いが立ち上った。
 未だ探しているのか、鴉の啼き交わす声が遠くに聞こえる。
 真言の代りに、チョウジ、チョウジと低く呟き続ければ、それも次第に気にならなくなってきた。
 心が落ち着いて行くのと反比例して聴覚に流れ込んでいく、夜の隙間に生きる者どもが立てるひそやかな足音。天の星々から降り注ぐ微弱な電子。音であり、気配であるそれらが全身の血管を柔らかに満たす。
 ひたすら友の名を呟きながら、その淡やかな感覚に身を浸し、じっと小平太は待った。



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