小平太は走っている。
ごうごうと彼の体を包む風と共に野を走っている。天狗である所の彼の足は、大人の忍者に比べてもなお速い。ばねのような足に踏みしだかれたイチゲが、白く可憐な花弁を黒い闇に散らす。とばっちりを食った花は非難の意を込めてぶるりと身を震わせるが、勿論走る天災はあっという間に遠くへ行っている。
小枝を踏み割り、垂れさがる蔓を引きちぎって、忍者らしからぬ騒々しさで小平太はひたすらに駈けた。
どうすればよいのか、分からないのだ。
長次には結局何も云えなかったが、それでも自分がひとでないことはばれているだろう。
明日になれば、きっと噂は広まってしまっている。そうなれば、あやかしの身の自分はきっと学園には居られまい。
そんな時に限って今まで楽しかった思い出が次から次へと蘇ってきて、知らず彼はぐずぐずと鼻を鳴らした。そのうち鼻水は両目にも湧きあがってきて、顔をぐちゃぐちゃにしながら小平太はなおも駈ける。水滴が一筋、ふた筋と頬を流れていく。容赦なく叩きつける向かい風にさらされて、冷たい感覚が次第に耳まで濡らした。だが、そんなことすら意識に入らない。
暴走列車のようにな少年に眠りを破られて、山の鳥獣がぎゃあぎゃあと騒ぎながら一目散に彼の進路から退散する。鼬、狸、野鼠。蹴りあげる小平太の足に踏み潰されてはかなわじと、背を丸くし、尻尾を振りたてて一目散に、より安全な茂みへと逃げ込んでいく。百舌や啄木鳥は眼を丸くして、ろくに見えぬ夜の闇へめくら滅法飛び立っていく。山は、一頭の巨大な黒々しい獣となり、ぐんわありと頭を振りたてているかのようだった。
だが、そのうち、小平太の頭上を円弧を描きながら追いかけるいくつかの影がある。幹や枝葉がこすれる音に被さるように、嗄声が長く、短く響く。
『おおい、おおい』
『小平太』
『泣いている』
『なぜ泣く』
『知らぬ』
『知らぬが泣いている』
『おおう、泣いているとも』
『なんで泣く』
そのうち、その影のいくつかが急降下し、小平太の進路を切るように飛び込んでいく。未だ止まらぬ彼が風を切って迫る、ぎりぎりの所で影はぐんと高度を上げてかわす。だが、その次の瞬間にはまた別の影が、小平太の目の前へ身を投げ出す。迫る暴風の、速度は落ちない。ふたたびの急上昇。ばさりと羽音がざわめく。
『泣くな小平太』
『泣くな』
『なぜ泣く』
今や走る小平太の前にも後ろにも影が群れ、びゅんびゅんと耳鳴りのような風がうなる。小平太の視界は時に真っ黒な影に遮られ、前が見えないほどだ。
『おおい』
『おおい、おおい』
くそったれ、と上がる息の間から言葉が漏れたその一秒後、一本の蔦が足元に伸びていた。あっと、息を呑んだときには、地面がすぐ鼻先にある。そして、体勢を整えぬ余裕も無いまま、頭から派手にすっ転ぶこととなった。思わず呼吸を止める。べしゃり。
柔らかな地面と言えど、先ほどまでのスピードそのままに叩きつけられた額から、じんじんと橙色の痛みが広がっていく。真っ白だった夜着は既に泥にまみれて斑だ。痛いのか、惨めなのか、悲しいのか、何だかよく分からないが胸を引っかかれるような感情が一気にせり上がってきて、小平太はそのままわんわんと泣いた。
そこへ、先ほどの影が次から次へと降りてきて、人目も憚らず(といってもこんな山奥に人目が在る筈もないが)身も世も無くあああう、あああうと声を上げる小平太の周りに降り立っていく。あああう、と声が上がる毎にその周りに黒い影が増え、またあああう、がある毎に湿った落ち葉が風圧で二三枚舞い上がる。
彼の慟哭に言葉は無い。それは人間というより獣の遠吠えの方が近いというくらいの、ただただ身の一番奥深い所から湧きあがってくる衝動にまかせた叫びだった。時々それを遮るかのように黒い影が一声挟むが、それらを押しつぶしなぎ倒すような、一切の遠慮のない大音量である。
もし誰かが今この瞬間にどこか山奥の木こり小屋で夜を明かしていれば、熊か山犬が騒いでいると思ったかもしれない。小平太のその声にはどこか、人間の声とはとても思えない強い響きがあった。
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