天狗の話 〜長次の場合〜



 この事、余人に悟られてはなりませぬ。
 悟られたが最後、二度とひとと共には暮らしてゆけぬと心得よ。


 長次にはばれた。大概にして口数が少なく何を考えているか分からぬような子どもであったが、人より本に興味があるからと言って他人に注意を払っていないわけではないのだ。むしろ、外側から眺める分、客観的で鋭い洞察を下しているともいえる。それが立証される機会は殆ど無いとはいえ。
 小平太は生憎同室者の観察眼に対し、あまりに無頓着だった。
 三年生になったころの話だ。
 学年が上がってくれば、段々消灯の時間についての意識が薄れてくる。
 一日八時間睡眠を取らなくてもいい体力が出来てくるせいでもあり、また次の日に響かない程度の自己管理ができてくるせいでもある。灯油を惜しみつつも予習に励む者あり、青春の悩みを熱く語り明かす者あり、また計算しても計算しても合わない帳簿に頭を抱える者もある。
 小平太と言えば、鍛えれば鍛えるほど体力がつくようになったことに喜びを覚え始めて、毎夜毎夜鍛錬に励んでいた。
 深更学園の外周を走りこんでいればよく級友たちと鉢合わせし、みな同じことを考えるのだと心強くもあった。
 だが、彼らは五夜連続で一睡もせずに鍛錬に明け暮れたりはしない。
 一週間の間一晩中帰ってこない同室の男が、それでも疲れ一つ見せずに昼は昼でバレーだのランニングだのにはしゃいでいれば、長次の観察眼を必要としなくたっておかしいと気がつくというものである。
 ある晩、夕飯を終えて必要最低限の宿題をやっつけ、さあ鍛錬だと飛び出しかけた小平太は長次に呼ばれた。
 振り返ってみれば彼が酷く真面目な顔を―――というか普段とあまり変わらない顔を―――して正座しており、小平太にも正面に座るように促す。別に胡坐だってよかったのだが、なんとなく雰囲気に気圧されて、彼には珍しく数年ぶりの正座をした。

「何、長次?」

 ぐりぐりと大きな目を見開いて、小平太は同級生の頭一つ分高い所にある顔を覗き込む。自分から持ちかけたくせに長次はしばらく黙り、(恐らく滅多に何か話題を持ち出さない性格ゆえに切り出し方が分からないのだ)そしてやっと唇が薄く開いた。
 前置きも何も無かった。

「お前は何だ」


 目の前がすうっと暗くなるような心持がした。天狗の仔である小平太に、母が何度も何度も、噛んで含めるように言い聞かせていたこと。己の正体を、明かしてはいけない禁。
 ひとは異質なものを嫌うという、なれば、もしお前がひとではないと分かれば、お前はすぐに石を投げられて追い出されてしまうよ、と母は息子が学校で使うための褌を何枚も畳んで風呂敷に包みながら心配そうに教えてくれた。忍術学園に入る、すぐ前のことだ。
 そうであるから年長の言いつけに割合素直な小平太は、心してその教えを守ってきたつもりだった。だが、今長次は何と云った?
 誰、ではなく何、で聞かれたあたりからして彼は観念した。

「あ…」

 脳味噌の中をたらたら無造作に流れるのは、実は薩摩隼人の隠れ里の出身で倭人とは体のつくりが違うのだ、とか先祖代々の忍びの家系で秘密の特訓を受けて育ったのだ、とかいっそ幼いころに秘術中の秘術である南蛮渡の手術を受けて超人間になったのだ、とか。そうした適当な作り話がそのまま半開きの歯の隙間から漏れだしそうになったが、長次の穏やかだが決して揺らがぬ眼にさらされて、それらは音を得る前にぷしゅうとしぼんでしまった。
 正体を明かしてはいけない。
 学園に居られなくなる。
 母に繰り返し繰り返し云われた事が、昨日のことにように耳に蘇る。
 だけど、この長次の眼ときたら!
 決して責め立てる様では無い。小平太が嘘をつくだろうと疑っているようでも無い。ただただ、じっと返答を待っている、いつもと変わらぬ静かな眼だ。
 だが、それは様々な云い訳で濁った自分の胸の奥底を、いとも簡単に一条の光で照らし出してしまうような眼であった。
 長次は口の代わりに、眼で語る。その眼は無言で、小平太が何を言うまでも無く真実を見ている。ここに来て嘘を吐くことなど、なんで出来よう?

「…黙っていて、ごめん」

 返事は、無い。

「私は、」

 正体を明かしては、いけない。
 母の声がした。

「ごめん長次!」

 云ったが最後、小平太の体は鉄砲玉の速度で長屋を飛び出していく。

「小平太!」
 長次の呼ぶ声は、夜に吸い込まれて消えた。



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