「…七松小平太先輩」
相手に比べれば情けないほどに子供じみた、高い声を三治郎は絞り出す。
「私の名前を知っているのか」
そりゃあ有名人ですからね、などと突っ込む気はさすがにこの状況では起こらず、ただかくんと頷いて肯定の意を伝えた。口さがないきり丸やお気楽なしんべえ喜三太辺りならそれでも言っていたかもしれないが、は組とはいえ彼らよりはTPOを弁えているつもりの三治郎としては、人を食ってしまうかもしれない天狗を前にまさに蛇に睨まれた蛙、とても軽口を叩ける気分にはならなかった。もし、天狗ではないとしたって、このいけいけどんどんな先輩は体も大きいし、鬼のようにおっかないのだ。
「見られちゃったか」
「…ごめんなさい」
この先輩は表情だけ見れば怒っている風ではなかった。どちらかといえば三治郎と同じくらいあっけにとられたという風で、どんな表情を浮かべようか決めかねているというような、ぽっかりとした微妙な顔だった。だが眼光はするどくて、全身から発せられる威圧感に逃げ出すか土下座したくなる。
とっさにかつて自分を救ってくれたあの数珠を思った。あれは学園に入学する時も忘れずに荷物へ入れてきたのだが、まさか裏山演習でこんなことになろうと朝予測が出来たらそれはもう預言者なのであって、当然そんな神通力のない三治郎は枕元のいつもの包みの中へ置いてきてしまっていた。
先輩が今日お昼を食べていて、あんまり運動してなくて、僕を食べられないくらいお腹いっぱいでありますようにと願うしかない。
「なんで謝るんだ?」
「えっと、その、見てはいけなかったんじゃないかと思って…」
ああ、神様仏様明王様、僕はもう連れていくには絶対に重すぎるけれど、まだお肉は柔らかいんでしょうか。
そんな心中の必死の問いかけを知ってか知らずか、目の前の先輩はまるで品定めをするようにじっと三治郎の特に腹の辺りに目を注いで、しばらく考えてるふうである。いいえ違うんです、お腹についているのは筋肉ですよ、最近実技頑張ってるんですから。兵ちゃんと部屋に籠ってからくり作ってるからって運動してないわけじゃないんです。
「…確かに、見られたのはまずかったかもなあ」
ひいっ!
「僕、言いません。誰にも言いませんから、食べないで下さい!」
すると小平太はぷっと噴き出した。よく笑うところを見る先輩だが、この時もおかしくておかしくてしょうがないというようにからからと天を仰いで笑った。
「食べる?私が?なんで?」
「だって、先輩は…先輩は、天狗なんですよね?」
笑いがすうっと小平太の唇から消えた。あのぎろりとした目をまたこちらに向けて、彼は一段と低い声で問う。その閻魔大王もかくやと思われるような真剣さに、三治郎の背筋に冷や汗が伝った。
「…どうしてそう思う?」
「昔、遭った事が…他の天狗に…」
「本当?二度も遭うなんて、珍しい事もあるもんだ」
「…ってことは、やっぱり…」
「うん、私は天狗だよ」
いっそ潔いまでに小平太は言い切った。
「…母親は人間だから、半分だけだけど」
そしてにいっと口を吊り上げて歯を見せて笑う。それは幼い頃のあの笑みにも通じていたが、あの時のような人外の不気味さはそこに無かった。
「人には秘密にしていたのに、まさか見つかっちゃうなんて」
言いながら、彼は腰を落として三治郎に目線を合わせた。
「名前は?」
「い、一年は組の夢崎三治郎」
すこしだけ後じさって答えた三治郎だったが、不思議と話しているうちに恐ろしさは薄れていく気がした。よく見れば、両目は光ってなどいないし、狼のように尖った牙が唇から剥き出ているわけでもない。
「は組…ああ、金吾のとこか。あほのは組」
は組が毎度巻き起こしている騒動を思い出したのか、楽しそうに一人頷いて彼は納得している。そうだ、金吾!
「あの、七松先輩」
「ん?」
三治郎は下手なことを言って刺激しないように恐る恐る、だがどうしても聞かねばならぬと決意を固めて話し出した。
「金吾を…連れて行かないでください。金吾は時々少し泣き虫だったり乱暴でやりすぎたりすることもあるけど、いつも剣の鍛錬をすごく頑張ってるんです。困ってる人がいたら、どんなに怖くても助けるし、絶対悪い子なんかじゃないです!」
時々声が震えたりもしたが、なんとかそれだけを一息に言い切った。
「金吾は、みんなと仲がいいんだね」
「はい、は組の仲間です。だから…金吾がいなくなっちゃったら、きっとみんな悲しむんです。お願いします!」
いつのまにか三治郎は一歩前に出ていた。まだ少し手は震えていたが、こぶしに握り込んでまっすぐ小平太の大きな目を見て、三治郎はまくしたてた。
すると、暖かい手を肩に感じた。
「…ねえ、三治郎。私は確かに天狗だけれども、決して学園の皆を傷つけたり、ひどいことをしたりはしないよ。三治郎を食べたりはしないし、金吾も連れて行かない。だから、安心していいよ」
そう言って聞かせる小平太の声は、音量が小さくともゆっくりと全身に染み渡っていく。肩を掴まれていても、三治郎はもう逃げたいとは思わなかった。
「分かった?」
「はい」
「そっか、そりゃよかった!」
そうしてまた白い歯が見える。この鬱蒼とした森に開けた空き地に注ぐ太陽の光に、その笑顔はよく似合っていた。あまりにあっけらかんと笑うので、釣られて三治郎にも笑みが浮かぶ。
「だけど、誰かに言ったらやっぱり食べちゃうぞ」
「言いません言いません言いません!」
音速で三治郎は首を振る。
「よし!」
と肩を叩いた力があまりに強いものだから、思わずよろめいてしまった。
やっぱりこの先輩はおっかない。
「ところで、なんで一年生がこんな所に来たんだ?」
「いや、それがはぐれてしまって…」
「なら送って行こう!」
皆まで言わせてはくれなかった。ひょい、と世界が揺れたと思ったら、小平太の背中の上に着地していた。どうやら猫の子でも掴むように背布を持って持ち上げられ、その上自分の背中に放り投げられたらしい。体格差はあるとはいえ、三治郎だって痩せ形ではない。七松小平太の怪力は常識を超える。
と、状況をこうして把握したころにはもう小平太は走り出していた。
「ちょっ、降ろしてください!歩けますって!」
「だってこっちの方が早いだろ」
早いことは早い。というより早すぎるのだ。走り出しとは思えないようなスピードで、既に景色が後ろに飛んで流れて行っている。その上、障害物を避けるためあり得ない角度で曲がるので、喋っているうちに首が折れそうだ。
「でも七松先輩、みんなどこにいるかも分からないんですよ!」
「なら見つかるまで探すまでだ!いっけいけどんどーん!」
あああ、とつい頭を抱えたくなった。が、両手を彼の首から離そうものならその瞬間落ちるだろう、しかもかなり手酷く。三治郎としてはまさに天狗に連れて行かれる状況で、あとは舌を噛まないように首の骨を折らないように、手も足も出ずにじっとしているしかなかった。
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