だから、忍術学園に来て七松小平太という体力魔人のような先輩を見たとき、彼はまるで天狗みたいだ、と思った。
よく通る張りのある声に、隆起し日に焼けた体躯。金吾が毎回委員会活動のたびに人というよりむしろ浅黄色のボロ切れになって帰ってきては、いかに七松先輩の元気が有り余っているかを半分羨望まじりに、半分恨みがましく語る。会計委員所属の団蔵と二人でその体験を分かち合っているようだが、その他の同級生は彼らより幾分幸運な委員会に属するので、ただ慰めるしかない。
その底知らぬ体力から周りにはまるでバケモノだと評する者もいて、全くその通りだと三治郎は頷いたものである。
だが、それはあくまでも比喩でしかなかった。あの日、野外演習で裏山に出かけるまでは。
また、と思われる向きもあるだろうが三治郎は迷っていた。いや、正確には帰り道の方角は分かるからはぐれていたという方が正しい。山の中に隠された密書を探すという課題を出されていた彼は、同じ班の兵太夫や金吾達を見失って一人当てもなく藪を歩いていた。一人とはいえ、地理の分からぬ場所でも無し、割と鷹揚に構えて進んでいたのはいいのだが、どうやら山道を逸れていたらしく、時間が経つほどに周りの木々の密度が増していく。校外ランニングで何度も来た裏山にもこんな息の詰まるような濃い緑があるのかと、感嘆した所で同意を求める同級生の姿は横に無い。
どこかで友人の甲高い笑い声や自分を呼ぶ声が聞こえないだろうか、と少々不安になって耳を澄ませながら歩いて行くと、目の前に一羽の鴉が舞い降りた。
びいどろのような小さい目が、こちらをじっと見ている。警戒するような様子で三治郎を見定めていたが、動かない三治郎に興味を失ったのか、はたまた彼がまだ子供であることに安心したのか、数秒後には再びばさっと羽を広げて飛んで行ってしまった。
「なんだあいつ」
その妙に人間臭い仕草が気になって、鳥の飛んで行った方角を見ると、なんだかそちらにやけに鴉が多く飛んでいる気がした。そういえば先ほどから鴉の気の抜けたしわがれ声をよく聞く。
手近な張り出した岩棚の上に登ってみれば、確かにここからそう遠くない地点を中心として鴉が飛び交っている。
「餌でもあるのかな」
山の中で餌、といえば動物の死体だろうか。そんなものは見たくないのだが、どうにも好奇心が勝って彼はどうせ迷いついでにちょっと見てくることにした。
がさりがさりと藪をかき分けていく。目当ての場所に近づくにつれ、木はまばらになってきたが比例するようにして下生えがより茂ってくる。鴉の鳴き声が煩く耳に聞こえるようになるころには、背の高い方でない三治郎の上背は、すっかり茂り放題の萩や藪苺に抜かされてしまっていた。
それにしても鴉がよくいる。
時々藪を踏み倒さなければ進めなくなった三治郎の足音でさえ、があがあとさんざめく鳴き声に消されて三治郎自身の耳にさえ聞こえないほどだ。上を見上げれば鴉が縦横無尽に飛び交っているが、密集した藪のおかげで三治郎に気付いた様子は無い。
これだけの数が集まっているというのに、死肉が放つであろう腐臭は感じなかった。
やがて、三治郎は視界を塞ぐ茂みが薄くなってきたのを感じ、この先に開けたところがあるのを知った。
「…そいつはすごいなぁ」
いきなり聞こえてきたこれは、三治郎の声ではない。
人がいるのか?
なんとなく身を低くして茂みの向こうを透かすようにして眺めてみれば、なるほど人影がある。しかもそれは、六年生の制服である濃緑をしていた。背景の森林にはよく溶け込む色だが、最近倒木があったらしくぽっかりと空いた草地に座って居れば訓練を積んでいない三治郎にも分かる。だが、かなり大きな声で話している割に、話し相手の姿は見当たらなかった。
「で、どこ行けば見られるんだ?」
伸び放題の量の多い髪の毛を力技でまとめたような髷に、喧しい鴉の鳴き声にも負けぬ特徴のある声とくれば、これは七松先輩、と思った時に彼は異様な光景に気がついた。
鴉だ。
くつろいで地面に腰を降ろしている六年生を取り巻くように、何十羽もの鴉が群がっている。
よく見れば、空き地に伸びた木の枝の上にもそこかしこに鴉が留まって、小平太の方に嘴を向けていた。これだけの数の凶暴そうな大きな鳥に囲まれているというのに、小平太に不安や怯えの色はまったくなかった。
「そうかそうか、じゃ、私ももうすぐ見られるな!」
小平太が言い放った言葉尻に同意するように、鴉が一斉に鳴き交わし羽をうつ。
喋っているのだ、鴉と。そう理解したと同時に、びっくりするくらい近くでひと際高く鴉が叫んだ。
それが放たれるや否や。集っていた集団が真っ黒い蠅の群れのように一斉に飛び立つ。ぎゃあぎゃあと鼓膜を劈く鳴き声と、羽を打ち震わせる音が三治郎の耳になだれ込んでくる。
攻撃されるかと慌てて頭をかばった三治郎の上を、大きな質量のものが次々に掠めていき、ばさばさという風が全身にぶち当たった。
だが、それも一瞬のこと。鴉達はあっという間に上空に飛び去っていき、今までの賑やかさは、逆に耳の痛くなるような静けさですぐに差し替えられた。
頭を上げて見れば、目の前に小平太が立っていた。
その後ろに、何百という黒い羽が空から舞い降りてきている。
小平太は双眸炯炯と見下ろしていて、その僅かに光さえ発するような、睨んだものを釘づけにするような目を見て三治郎はやはりこの人は天狗だ、と理性より直感で確信した。
「誰かと思えば、一年生じゃないか」
音の無くなった空き地に、その一五歳の少年にしては低い声が響き渡る。あれほど煩かった鴉はもう一羽たりとておらず、かわりにゆっくりゆっくり次から次へと舞い降りてくる黒い羽だけが、静かにさっきの光景が現実であったことを伝えていた。
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