天狗の話



 三治郎は、天狗に遭ったことがある。
 彼がもっと幼かったころの話だ。


 彼は山伏の父とともに、山籠りをしていた。とはいえ幼い彼のことであるから、修行というより父に付きまとっていただけなのだが。
 ところが、その普通の人はまず足を踏み入れぬ深山幽谷で、きっかけは忘れたが彼は父とはぐれてしまった。
 彼の記憶は、獣道すら無い鬱蒼とした森の中、父の白い装束を探し求め、ひたすら歩き続けているところから始まる。信じられないほどに太い幹振りの木々がぎっしりと生え、その木肌には暗褐色やどろりとした深緑の苔や、種類も分からぬ人の耳のような茸がみっしりと生えていていかにも気色が悪い。小さな三治郎の足は、じめついた赤土にのたくる下生えの藪にとられて幾度も縺れた。人の気配ひとつしないのに、何とも得体のしれないホウホウという声が時折響き、三治郎は恐ろしいやら疲れたやらで、べそをかきながら鼻をすすりながらひたすらに歩き続けていた。
 歩けば歩くほど今までいたところから遠くなるから、迷った時にはその場から動いてはいけないというのが鉄則であるというのは、今の忍たまとしての三治郎なら分かっていただろう。だが、そこは十にも満たぬ幼児であって、とにかく進まなければ一生この森から出られないと恐慌に陥った頭でかたくなに信じていた節がある。
 もう随分長いこと三治郎はそうして闇雲に突き進んでいた。そこへ突然、

「この山の中に人の子とは、果て面妖な」

 と野太い声が降ってきたかと思うと、ごおおという旋風が頂上の方から吹き下ろして、思わず目をつぶった三治郎の目の前でどさっという音がした。
 ついに狼が自分を喰らいに来たかと怯えきった三治郎が見たのは、獣ではなく人の姿をしていた。
 父と同じ、白い山伏装束に錫杖。父の背中は誰より大きいと思っていたのだが、この山伏はそれよりもずっと背が高かった。昼なお暗い幽谷では、そのがっしりした体の上についた厳つい顔の表情は分からない。

「柔らかそうな肉をしているわい。取って喰おうか、連れて行こうか」

 やっと人に遭えたと気を抜きかけた三治郎を高みから見下ろして、その山伏はそんな恐ろしいことを言う。
 怒鳴ってもいないのに、その低い声は木々を震わし耳へ直に叩きこまれるような、不思議な声であった。
 ここに至って三治郎はどうやらこの山伏が普通の人でないことに気がついた。恐ろしい、が山伏の爛々と光る目に射すくまれると、今までどんなに怖くとも前に進んでいた足が動かない。鼻をすするのも忘れてがたがたと震えている三治郎を、山伏はにやにやと耳まで裂ける様な笑みを浮かべて覗き込んだ。

「取って喰おうか、だがこんなに小そうては喰いでが無い。連れて行こうか、だがこんなに大きゅうては疲れるのう。やはり、取って喰ってしまおうか」

 ああ、自分はここで食べられてしまう。目の前が真っ暗になったところへ、じゃらん、と錫杖の鳴る音がした。それが、父の鳴らすあの耳慣れた音と同じであって、同時に父が怖いときには山神様にお頼みしなさい、と繰り返し言って聞かせてくれた事を思い出した。
 三治郎はもう必死で、教えてもらった印の組み方を思い出し、短い指ながらぎこちなくそれを組んで神様神様お助けくださいと心の中で唱える。

「おや、それは不動明王の数珠」

 前で組んでいる両手にかかるのは、父に持たせてもらったお守りだ。

「これは困った。明王様のご加護を受けた子供を食べるわけにはいかぬ」

 ぎゅっと目をつぶっていた三治郎が、脅すような声音が若干和らいだのを感じてそうっと目を開ければ、山伏は手甲のついた手でぼりぼりとざんばら頭を掻いていた。

「喰ってはならん、連れて行ってもならん。…そうだ、ならば助けてやろう」

 えっ、と思ったところで山伏がずいとこちらに踏み出して、竦み上がった三治郎はまたぎゅっと目を瞑った。

「子供よ、よぉく聞け。このまままっすぐ行くと、小さな祠がある。正面に回ったら、背中を向けてまたまっすぐ行け。いいか、決して曲がってはならんぞ、まっすぐだぞ」

 まっすぐだぞ、ともう一度念を押され、無我夢中で頷くともう一度突風が吹いた。
 頭上で木の枝が打ち合って、かっかっかっかと高笑いにも似た音を響かせる。それが止んだころになって目を開けてみたら、もうそこには誰一人いなかった。
 

 言われた通りに進めば果たしてそこに崩れかけたような古い祠があり、祠の正面を背にまたひたすら歩いていけば、やがて地を這うような法螺貝が風に乗って聞こえてきた。もう嬉しくて嬉しくて、時折地面をのたくる木の根に躓くのも構わず音のする方に走っていくと、焦燥した父が息も限りに法螺貝を吹き鳴らして彼を探していた。
 三治郎!と叫んだ父の胸元に飛び込んで、彼はそれこそ顔から出るものを全部出して、声を上げて泣いた。
 後からこの不思議な体験を話せば、あの山伏はきっと天狗に違いないと言われた。天狗とは怪力で神通力を使い、突風と共に空を飛んで現れるのだそうだ。普段からお山を大切にしていれば親切だが、悪い子は攫われてしまうという。
 三治郎が迷い続けていれば畢竟空腹で倒れるか獣に襲われていただろうから、まさに天祐であったと、父と二人で散々探したが、天狗にもう一度会うどころか結局あの祠さえ見つかることは無かった。



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