白猫記 3





 こうして私は、海松家江戸屋敷内勤番長屋住まいの番方武士、潮崎文次に飼われることとなった。番方というのは門扉や要人の警護が主な仕事であり、勘定方でないのが不思議な気もしたが、考えてみれば文次郎は算盤が好きで会計委員になったわけではなく、会計委員としての職務を生真面目に遂行していただけのことだ。
 太平楽の江戸では番方は暇を持て余すのが常だったが、文次郎はやはり文次郎、勤めの無い日も刀の手入れや狭い庭での鍛錬に明け暮れているのだった。だが貧乏な小藩の一介の藩士、まともなものを食べていないのだからいくら鍛えたとて貧相なからだが大きくなるわけでもなし、まったくご苦労なことだと思う。
 その粗末な食事の中から、文次郎は私に食べるものを与えてよこした。腹が空けば鳥でも虫でも捕ってこられるというのに余計な世話なのだが、文次郎は滑稽なほど私に甘かった。鍛錬の最中でも寄れば頭を撫で、雨が降れば私を捜し、寒くなれば布団を敷いた。人であった頃の私が嫉妬するほどの待遇に溺れて、勘が鈍っていたことは否定しまい。何よりすぐ側に文次郎がいるのだ。この私が藩内で燻る不穏な動きに気付けなかったとしても無理もなかった。

 その年の暮れ、餅売りの口上を寒風が吹き飛ばすような晩に、文次郎は夜通し御殿裏門の警護に立っていた。私は煎餅布団から顔だけ出して、折からちらつき始めた小雪を見るともなしに眺めていた。北風に混じって遠方から、忍ばせた足音と刀の鞘同士のぶつかる金属音が耳に入った。それを聞いた途端なんだか居たたまれなくなって、心地の良い布団を抜けて庭へ出た。 この江戸屋敷には文次郎のような藩士の暮らす長屋や畑の内側に、殿様やその奥方の暮らす御殿や役場があって、大きな藩ならいざ知らず海松藩の邸では堀も垣根もなく、ただ土塀がぐるりとその周囲を囲っていた。足音はその土塀の切れ目、文次郎の警護する裏門へ向かっている。長屋の屋根を伝って走っている時、こぉーん、こぉーんと木板を叩く音がした。闇夜を裂くその音に続いて、松明の焦げる匂い、人のざわめき、かんかんという鐘の音が静寂の敷地に溢れだす。
 裏門に辿りついた時、濃い血の匂いがした。果たして、うっすら白い地面に足跡が乱れて灰色の泥を積み上げた先に、ひとりの侍が仰向けに倒れていた。文次郎だ。傍らの南天と同じほどに赤い血が地面に染みだしている。ぱっくりと斬られた提灯がいくつも転がり、今まさに御殿の砂利を踏んで遠ざからんとする足音がはっきり聞こえた。二人一組で警護をしていたはずの相方の姿はどこにもなかった。
 文次郎は刀を握ったまま、血だまりの中で微動だにしない。割られた木板がすぐ側に落ちていた。近寄って見ると、ようよう胸の上下が確認できた。けれどこの傷では、もうもたない。

 あぁーお、あぁーおと鳴いてはみても、誰一人として裏手に駆けつけて来る者はいない。御殿の中からかすかに怒号と斬り合いの音が聞こえ、物の倒れる音もする。薄情な奴らだ。こんな痩せ侍でも、お家の役に立ってきたであろうに。こんな寂しいところで一人で死なせるつもりか。嗚呼文次郎、お前は見捨てられたのだ。所詮下っ端は下っ端、武士になったとて忍びと変わらぬ。ひとりでここで死んでゆく、哀れな文次郎。私だけがお前に寄り添っていてやる。点々と血飛沫の飛んだ頬に頭をこすりつけると、冷たくなり始めた瞼がぴくりと動いた。

 千、来てくれたのか

 閉じられたと思った薄目が開いて、膜の張った黒い瞳が私を見上げていた。真っ赤な掌が震えながら上がって、そこに白い毛を摺り寄せると、血の匂いに混じって汗のにおいがした。もんじろう、そう私は呼んだ。それはいつもと変わらぬ猫の呻きに過ぎなかったけれど、焦点の合わない文次郎の眼が瞬きをし、血の泡が零れる口の端にわずかな笑みが浮かんだ。

 何故だろう、おれはずっと前から、おまえを知っていたような気がするよ

 当たり前だ。どれだけお前を捜したと思っている。何も知らずにいい気なものだ。ばかもんじ。どうしてまた私を置いてゆく。私は何も出来ない。見ていることしか出来ない。文次郎。あいたかった。あいたかったのだ文次郎。やっとあえたのにもうゆくつもりか。にゃあお。私はここにいるのに。

 せん、またな

 文次郎の手が一度きり私を撫でて、ぱたりと地に落ち、それきり掌の震えは止まった。雪が降る。光を失った両の目に一匹の老いた猫が映っていた。白が文次郎を埋めてゆく。私と同じ白い色。文次郎。白。にゃあお。
 



 元禄元年十二月十六日深夜。海松家江戸屋敷の御家騒動は、駆けつけた江戸家老一派の手の者によって鎮圧された。捕縛された元家老らの身柄が引き渡されたのち、屋敷内の御殿裏門近くの灯篭の側で、海松家家臣・潮崎文次の遺体が発見される。その傍らには雪に覆われた地面と見分けがつかぬほどに白い猫が、遺体の側に寄り添うようにして凍死していたという。


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