白猫記 2
幾度か季節は巡って、やみくもに動き回ることをやめたのはそれまでになく大きな町に着いてからであった。えど、というのは聞き慣れない名前だった。摂津や近江や丹波はずっと西のほうにまだあると知って安心したのは、人間であった頃は京の近くに住んでいたからだろう。ここは相模をさらに越えたところだという。板東には深い山ばかりと思っていたのに、随分と景色も変わったものだ。
河原の下に身を落ち着けて眺める空は、ぼうと霞んで埃っぽく、時折下を覗きこむ人間の頭で黒く陰ったりした。遠くを飛ぶ烏にはこの大きな街のすべてが見えるのだろうか。そう思って私も高い屋根の上に登ってはみたが、眼下に蠢く人の群れを見るにつけ、なにかを捜さなければという焦りだけが大きくなるばかり、しばらくして無理に高いところへ登るのはやめてしまった。
それにしても、腰で裾をはしょった身なりの男たちが走り回り、台車がひっきりなしに通る往来を見ていると、こうもたくさんの人間が朝から晩まで行き交ってしかも同じ人間でないのが不思議に思えてくる。世の中にはこれほどの人間がいるのに、どうして私の捜し求める人に出会えようか。今はっきりした。私を駆り立て、落ち着かなくさせる何かは、かつてひとがたであったものだ。きっと私が人間であった頃に、私にとってどうしても必要な相手だったのだ。だから生まれ変わった今もこうしてそれを探し求めずにはいられない。もっとも今は顔も煙のようだけれど。
そうして粗末な橋の上で人間の顔を眺めて過ごしていた時、後ろから旗本の馬が来たのに気が付かず、哀れ私のからだは流れに落ちた。渦巻くどぶ色の水をしこたま飲み、毛が足に絡んで重く、さていよいよかと思ったのだが、やはりどうしても死にきれぬ。私を引き揚げたのは、ひとのよさそうな丸顔の若旦那だった。
それからは、日本橋にある大店で日がな一日往来を眺めて過ごした。そこを行き交う呆れるほどたくさんの人間の中に、私の捜している人がいるかもしれないと思ったのだ。勿論私が猫になっているのだから、相手が人間だとは限らない。犬や猿になっているやもしれぬ。過去に食べた鼠のうちの一匹であったかもしれないが、そんな気色の悪い想像は勘弁だし、あの文次郎が田舎の猫風情にあっけなくやられるようならそもそも用はない。文次郎。そうだ、確かにそんな名前であった。なぜこんなにも文次郎とやらを捜して待たねばならぬのか。一匹の猫の寿命をとっくに超える年月を私は生きている。
大旦那が若旦那に家督を譲り、商いの売り物が変わり、私の縁側は取り壊されて倉が立てられた。かわりに石灯籠に座り込んで、垣根越しにやはり往来を眺める。灯篭の足元で赤い金魚が跳ねたが、小魚如きに気をひかれることもなくなった。
刻を追うごとに強くなる日差しが朝顔を萎れさせてゆく。変わり朝顔が流行りであるらしく、向かいの家は簾の前に鉢をずらりと並べて精が出ることだが、主人が遅起きであるので、大方の花はあるじの顔を見ることなくその盛りを過ぎてしまう。朝顔は無人の路地に空しく咲き誇る。
私と文次郎は随分と長い間、一緒に暮らしていたことがある。あとから振り返る時間の長さというのは怪しいもので、一緒にいた時間というのはこうして文次郎を待つ時間より、それどころか文次郎と別れてから人間の私が生きた時間よりもずっとずっと短いかもしれぬ。それでもその事実をのみこうして覚えているのだから、よほど毎日がずっしりと重い、旬の果実を齧るようなみずみずしい日々だったのだろう。その日々を糧に残りの人生を生き、死してなお、こうして生まれ変わってまで逢いたいと願うほどに。
朝顔は日ごと、咲いてはしぼみ、咲いてはしぼんだ。茶色く乾いた花殻が増えるたび、逢えない日数が募ってゆく。あるじはもはや水をやりにも来ない。朝顔は次第に咲く力すら失って、朝が来ても首を垂れてうなだれるだけになった。
文次郎。おまえはどこにいる。私を待たせるとはいい度胸だ。今はもう、白茶けた路面にあの隈だらけの四角い顔が浮かぶまでになった。一晩中、小さな灯火を頼りに算盤を叩いている背中も。ふたりだけでいる時に、仙、と私を呼ぶ、かすかに甘い抑揚も。
ひとつ、ふたつ、文次郎の影が心に湧きあがり、咲いた朝顔の数ほどもむなしい幻影が眼前に浮かんだ。日ごとにそれは増えてゆくのに、一向に当人は現れないのだから皮肉なものだ。
この頃はさすがにからだの自由が利かなくなってきた。私は結局、この石灯籠の上で虚像を抱いて、長い長い生を終えるのかもしれない。そう考えた時、大通りを行く痩せた武士が、ふらりと例の路地に目を止めるのが見えた。打ち捨てられた朝顔の鉢を覗きこむ貧相な武士の姿に、ざわりと背中の毛が逆立つ。間違いない。文次郎だ。
もうまったく前後もわからぬような、熱い波が尻尾の先から鼻の先まで駆け抜けて、それに浮かされるように垣根を飛び越え、文次郎に駆け寄った。やっと会えた。文次郎、散々待たせおって。
おや、これはどこの猫だろう。随分と俺に懐くようだが。
たしかに文次郎はそう言った。足元に擦りついた私を抱え上げ、顔をまともに見てそう言ったのだ。分からんのか文次郎。この私が。たしかに今は猫になっているからすぐに分からずとも不思議はないが、お前の顔かたちがこのように変わっていようと私はすぐに分かったのに。文次郎の生まれ変わりはこれに違いないと、数多の鈴の音が打ち震えるような調べが、からだじゅうに響いているというのに、お前は何も感じないのか。
お前、どこぞの飼い猫ならきちんとお帰り。きっと心配しているだろうから。
猫にそうするようにのどをするりと撫でて、文次郎は私を地面に降ろしてしまった。そのまま歩き出そうとする足を必死で追う。何万日も待ったのだ。見失ってたまるものか。
なんだ、どうしても付いてくるつもりかい。強情なやつだ。
そして文次郎は私の好きなあの苦笑を浮かべて、私を腕の中に抱え上げた。そのまま深川のほうへ向かうらしい。武骨な武士が子猫というには大きすぎる白猫を抱いて歩く姿は往来の視線を集めるようだったが、文次郎は気にもとめない。そのうち、大名屋敷が綿々と続く横町へやってきた。うちの一つへ入るとき、門番の侍がひらりと声をかけた。
おおい、潮崎の。えらく貫録のある猫だな。
どうも惚れられちまったらしくてね、などと暢気に笑う文次郎を引っ掻いてやりたくなったが、そこは我慢するほどの分別はある。せめてと尻尾で腕をはたいてやると、文次郎はこちらを見下ろして言った。
たしかに、まるで千年も生きているようだ。だからお前は「千」だ。
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