しのばずの恋
梅の散った庭に、雀が二羽戯れている。
久々の風のないおだやかな天気に、文次郎は部屋の掃除をすることに決めた。あと一週間後にはこの部屋を後輩に明け渡し、長屋の入り口に近い、最後の一年を過ごす部屋に移らなければならない。
障子を開け放って二人分の布団を干し、畳を上げようと行李をまとめて持ち上げる。だが手が滑って蓋が外れ、一番下の行李から中身が零れ落ちた。いつかの課題で写した図面、壊れた苦無、夏祭りで買った紺色の根付、そしてからからに乾ききった梅の枝。
はてこれは何だったろうか、とつまんで持ち上げれば、剥がれ落ちた樹皮の下から白茶けた芯が顔を出した。
一年前のこと。
文次郎はひとりである城の門を潜っていた。
城の規模の割には大きい城下町には、包帯を巻いた足軽や木材を積んだ大八車に混じって、長持ちを連ねた商人たちの姿が目立った。
彼らの横を追い越しながら坂を上った文次郎は門番に用件を告げ、城代が待つ広間に向かう。
何日か前、忍術学園と友好関係にあるこの城は、敵対する城に攻められ根城を一つ失った。その撤退を助けよというのが先日の実習内容であり、文次郎と仙蔵は落ち延びる姫君に同行し、この城へ送り届けた。その時は満足に礼も言えなかったからと呼び出されたのが今回の訪問というわけだ。わざわざ人を呼びつけておいて礼とは勝手なものだ、と心中で苦笑する。予想通り仙蔵は面倒だと言って仮病を使い、文次郎ひとりがはるばる山を越えてやってくる羽目になった。
「先日は、忍術学園の方々には大変世話になった。その方らにも姫がよくしてもらったようで、礼を言う」
城代の挨拶は形式通りのもので、いくばくかの金子と、くれぐれも学園長によろしくと言伝を賜って文次郎は退出した。何のことはない、正式な謝礼は家老自らが学園に届けているのだから、年若い文次郎を呼び出すことで形ばかりの対等を演出したいに過ぎなかった。
だが、廊下に姫本人が侍女を従えて待っていたのは予想外だった。自分の城の中だというのに薄紅色の布を被り、重たそうな打掛を着込んでいる。咄嗟に膝をついて頭を下げた文次郎をちらりと見下ろした姫は、袂から梅の枝に結びつけた文を取り出した。
「その節はお二方にお世話になりました。どうかこれを、ご友人に」
こんなに声の細いお方だったか。そう文次郎が訝しむ間にも、侍女が姫の手から文を受け取って、文次郎に差し出した。蕾の開きかけた梅の花が、ふわりと香る。
頭を下げてそれを受け取った文次郎を、姫はしばらく見つめていた。それからふい、と踵を返し、背中越しにハッキリとした声で言った。
「文次郎どの、あなたには二度と会うことはありますまい」
帰りは山を登り沢を伝い、学園までの道をひた走った。懐には姫からの文がある。花の何輪かは潰れてしまっただろうが、この際仕方がない。
(これを届ければよいのだ)
今に比べれば幼かったが、女人が草花に結び付けて渡す文の意味は充分に知っていた。たとえ忍術学園のくの一たちには、そんな風流でまわりくどい風習が無縁であったとしても。
一介の忍びに文を渡す姫の意図はわからない。もとより身分違いだ。仮に思いが通じたとしても、それから先に何があろうとも思われない。だが、だからこそ余計に文次郎には、遠い想い人に文を書く姫の行為がこの上なく貴く美しいものに思われた。その大切な文を託されたのだから、何があろうとも仙蔵に届けねばなるまい。
時が経つごとに、道を急ぐほどに、懐は重くなった。落としてやしないかと手をやって確かめるたびに、そこにきちんと梅の枝はあった。あるいは、と渓流を飛び越えたり、木の枝を掴んで回りながら飛んだりしても、梅の枝は文次郎の懐から落ちることはなかった。
姫は落ち延びる道中、髪を高く結い小袖に鎧をつけて男装していた。きりりと跳ね上がった眦は仙蔵のそれにも似ていたが、ふっくらと丸みをおびた頬骨や、仙蔵の紅唇にもまして赤く艶やかな唇は、どんなに勇ましい格好をしていてもそれが女人のものだとはっきり主張していて、隠しているからこそのなまめかしさに文次郎は時折目をそらしたものだった。疑いようもなく美しい姫が仙蔵と並べば、それは確かに絵になるだろう。
(皆、あの見た目に騙されやがる)
姫ではなく、仙蔵のことだ。
文次郎は幾度となく、何年の誰某が立花に懸想しているという噂を聞いてきた。仙蔵に言い寄る級友を目撃したことすらある。だが男同士の間にもそういう愛情のあることは話に聞いていたし、告白を容れるも容れないも本人次第だから、そのことを仙蔵に問いただしたことはない。不思議と仙蔵に誰か特定の相手が出来たという話は聞かないが、それだって文次郎がその手の話を進んで聞こうとしないせいかもしれない。どっちにせよ、自分には関係のないことだと思っていた。
(俺は色になぞ惑わされまい)
取り澄ました容貌の裏に、子供じみた甘えや弱さのあることを、誰より近くで仙蔵を見てきた文次郎はよく知っている。どこか上の空で懐に手を入れれば、突き出た棘が指先を刺した。
帰還し学園長に報告を済ませるとすぐに自室に向かい、仙蔵の投げやりな労いの言葉を受けた。
「仙蔵。姫がお前に文だそうだ」
この男に似合わぬ、壊れ物を扱うかのような丁重さで渡された結び文を、仙蔵はぱらりとほどいて中を読んだ。
す、と眉が顰められる。
しばらくの沈黙があって、やがて仙蔵は顔をあげ、どんな表情を浮かべるべきか迷っているという風情の文次郎をじろじろと見て、そして噴き出した。
笑いは止まらず、涙さえ浮かべる勢いの仙蔵を文次郎は睨み付ける。
「何がおかしい」
「は、何がっておまえ、これはおまえ宛だぞ」
「いやしかし」
「まあ読め」
乱暴に突き出されたそれを受け取って中を検める。
梅が枝に結びし文の十重二十重
道半ばにやなどかとくらむ
首をかしげる様子の文次郎に、仙蔵はにやにや笑いを深くする。
「字面通りに解釈すれば、梅の枝の文は何重にも結ばれていて、道中には解くまい、という意味だ」
「それは分かる」
「この朴念仁め。つまり梅の枝とは、手紙を運ぶおまえのことだよ。梅の枝に結んだ文が解けないのだから、おまえに寄せた恋心を途中でどうしても諦めきれない、ということだ」
一瞬後に何を言われたか理解した。
かあっと顔全体が熱くなる、
「しかし、姫はなぜおまえ宛だと……」
「あの短い間で姫はよく人柄を見抜いたのさ。面と向かって恋文なんぞ渡されたらおまえ、中を見もせずに固辞するだろう。だが私に届ける文とあれば、それこそ道中ほどいてみようともせずに律儀に持ち帰るからな」
あの姫の謎かけのような態度はそういうことか。
得心しかけて、もうひとつ腑に落ちぬことを思いだした。
「しかしもう俺には会わぬと言ったぞ」
「会えぬのさ。一国の殿さまの姫御だ、あの御年ともなればすでに縁付く相手がいる」
「そういえばいつになくたくさんの商人が門付けしていたな。あれは結納品を持ってきたのか」
「こたびの敗北で、同盟を急ぐつもりなのだろう」
「そうか」
文次郎は姫の様子を思い出す。横を向いた小さな鼻の、すこし上を向いた先端。垂衣の奥の、濡れたような黒い瞳。何より文を侍女に渡す指先の、ごくわずかな震え。
黙り込んだ文次郎を尻目に、仙蔵はすい、と立ち上がる。
「何にせよ、詮無いことだ」
叶わぬ恋ならば黙っておればよいものを、と独り言のように呟いたその声音の色を、文次郎は忘れられないでいる。
梅の枝がぽとりと畳に落ちた。かつて艶々と光っていた樹皮はすっかり乾いてひび割れている。ここに結ばれていたはずの文はどうしただろう。例の姫君の面影と一緒に燃やしてしまったような気もする。
叶わぬ恋ならば。
いずれ別れる間柄ならば。
仙蔵の言うように、黙って胸に秘めておくべきなのか。
ふと思い出したのは、例の文を託されることになった実習中の晩のことだ。
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