しのばずの恋 2



 夜の森の闇は深く、文次郎は何度となく蔦や下草に足をとられて転びそうになった。足指の間に入り込んだ小石が痛い。だが止まる間は無く、苦痛や疲労の声さえも許されぬ沈黙が彼に無言の行軍を強いた。谷に谺する陣太鼓は彼らを鼓舞するどころか、敵が近くまで迫っていることを知らせる恐怖でしかなかった。
 足元を見定めるのを諦めて、ふと肩越しに振り返れば夜目にも白い丸顔と目があった。城育ちの姫君が音を上げず強行軍についてきているのだ、自分が弱気になるわけにはいかない。姫の後ろにいるはずの仙蔵にそれまでの弱気を悟られまいと、慌てて文次郎は前に向き直った。

 文次郎たちの小隊は、城を抜ける時には侍大将を頭に二十人ほどであった。それが今や十人弱の足音しかない。その小隊を太鼓の音は執拗に追いかけてくる。月が雲に隠れ、彼らの周りが完全な闇となったその時、前方の藪ががさりと音を立てて、誰かが転がり出た。
 隊列は一斉に足を止め、侍大将が誰何する。文次郎は苦無を握り、姫君のほうへ身体を寄せた。何か弱弱しく答える声がして、再び顔を出した月に浮かび上がったのは、城を出る時に別れた味方の足軽であった。
 折れた槍を背負い蹲るその足軽から、何かを受け取った侍大将が姫の前までまかり出る。渡されたものを見て文次郎はぎょっとした。一瞬蛇のようにも見えたそれは、長い黒髪の束であったからである。

「御身の代わりに討死を」

 侍大将が静かに言い渡すと同時に、姫は髪を握りしめて声もなく泣き崩れた。立ち尽くす文次郎の横で侍大将が呟いた。おかわいそうに、あのような別れをしたままで、と。


 あとで文次郎は姫本人から、その髪の持ち主は姫の乳母の娘であり、姫の侍女として、幼少時よりまるで姉妹のように育ったのだと聞いた。近しいゆえにささいなことで喧嘩をして、ここしばらくは遠ざけていたのだとも。

「妾はあれを憎いと思ったことなど、本当は一度もなかったのに」

 ぽつりと言った姫に、文次郎は思わず声をかけた。

「言葉にしなくとも、きっと分かっておられたはずです」

「いえ、せめて礼のひとつも言えていれば……」

「今となっては、姫が無事お父上の元にお戻りになることが何よりの供養、どうかお気を強くお持ちください。私どもがお守りしますから」

 小袖を強く握りしめ、俯いたまま姫は頷いた。

「随分と無責任なことを言うものだな」

 隊列に戻った文次郎に仙蔵が言った。真意を探ろうと覗いた横顔は、暗闇に隠されてほとんど何の表情も見えはしない。水を差された気分で言い返した。

「あの場ではああ言うしかないだろう」

「出来もしないくせに」

 実際のところ、何万という敵兵を向こうに回しての護衛が四年生の実習であるはずがなかった。あの実習の真の目的、それは負け戦が、敗走がどんなものか身を持って知ることであった。
 とはいえ、とにかく城の者には文次郎たちは護衛のためにいることになっているのだから、妙なことで腹を立てるものだと不思議に感じたのも事実である。


(ああ、そうか)

 当時を思い返して、分かったことがある。姫が文を書いた理由だ。あの気丈な姫にも、侍女との別れがよほど堪えたのだろう。想いを伝えずに後悔するのは一度で十分だ。たとえそれが最後の別れになろうとも。
 そしてもう一つ。
 なぜ自分は梅の枝だけを後生大事にとっていたのか。そのくせなぜ今に至るまで、枝と一緒に例の一件を行李の底に仕舞い込み、思い出すのを避けていたのか。

(俺は仙蔵を好いているからだ)

 仙蔵が好きだ。
 ずっと前から気付いていた。つくりものの花のような仙蔵でも、冷静で優秀な仙蔵でもなく、言いたいことも言えずに意地を張り、可笑しければ身を捩って笑う仙蔵が好きだ。
 意地っぱりはこちらも同じで、気持ちに蓋をして見ない振りをしているうちに、卒業はあと一年後に迫っていた。この学び舎を出れば二度と会えないかもしれない。想いを通じたところで、別れが辛くなるだけかもしれない。
 黙っておれば良いものを。仙蔵の声音が耳に蘇る。
 それもその通りかもしれない。けれど梅の枝を捨てられなかったのは、それでも姫君が文を書いた理由を無意識のどこかで理解し、その決断に倣おうとしたからではないのか。それなのにいつのまにか一年が過ぎてしまった。もう一刻の猶予もない。

 気が付けば、すでに陽は傾いている。結局手が付けられなかった畳の目に斜陽が反射し、さざ波のようにきらめく。一陣のつむじ風が、掃き残しの梅の花弁をどこかへさらっていった。
 軽い足音が近づいて来る。障子に見慣れた影が映るまで、あと数瞬。文次郎は大きく息を吸った。



    <了>

mainへ