あれから幾歳経ったろうか。
何度か山田の名は耳にしたが、やはり斜堂にとっては他人事でしかなかった。ただ時折、その容姿の形容に混じる「鬼のよう」だの「閻魔の生き写し」だのといった誇張に忍び笑いを漏らすのみで、まさか本当に再び相まみえることになろうとは思ってもみなかった。それも山田が望んだ形で、である。
外は白く煙るほどの大雨で、天から水が降りてくるのか地から湧き出るのかと訝しむほどであった。
数刻前、真っ黒な空から逃れるようにこの廃寺に潜りこんだ斜堂は、ほどなくして勢いよく降り始めた雨をなかば上の空で聴いていた。そこに轟々と地を打つ水幕をくぐって現れた蓑姿が山田であった。お互い思わぬ再会に会釈をし、一人分ほどの間を取って並んで小上がりに座った。ずっしりと水を含んだ蓑と笠にもかかわらずすっかり色の変わった上衣を絞る山田は変わらず隙のない穏やかな顔つきであったが、斜堂の記憶よりわずかに頬に肉が付いていた。
「いや参りました。多少の雨なら洞にでも入ってやり過ごそうと思ったらこれですからな。よいところに寺があったものです」
「変わりないようで」
「ええ……まあ」
実の無い応酬のあとは二人して黙り込む。尻に敷いた手ぬぐいのごみをぴんさで一つずつ取り除くのを山田が面白そうに覗きこんできたが無視した。
そのとき、彼らがいる本堂の奥から、火のついたような子供の泣き声が聞こえてきた。
所在なく雨宿りをする数組の旅人たちのうち、自然と一番よい場所を譲られていたのは4つほどの子を連れた若夫婦であったのだが、どうやらその子が泣きだしたらしい。両親があやす間も泣き声は雨音すらかき消すほどに大きくなった。雨が降っていると言っても夏の盛り、風が止まった本堂の中は蒸し暑い。さして広くはないその本堂の隙間すら埋めるかのような声は、短調でいて脳につきささる。
両親の焦燥とは裏腹に、よく息が続くものだと思うほど泣き声は続いた。
そのとき小さな悲鳴が聞こえて、斜堂と山田が振り向くと若夫婦の前に三人の身なりのよくない若者が立っていた。
息を詰める堂内に怒号が響く。
雨で足止めされて苛ついていたのだろうが、それにしても沸点の低いことよと山田が呟いた。脅える子が一層声を張り上げる。それに触発されたかのように若者の一人が一足歩を進め、母子を守ろうとしたのだろうか、鈍い音がして夫らしき男が床に転がった。さらにならずものの手が、天も地もなく泣き叫ぶ子に伸びる。
山田の背が揺れるより先に、斜堂は音をたてずに立ち上がっていた。本堂の視線は気の毒な夫婦に集まっており、山田以外に斜堂に気付く者はいない。従って後ろから伸びた腕に手首をひねりあげられた若者は全くの不意打ちだったのだろう、薄暗い空間に斜堂の容貌を見てひいっと情けない声を上げた。
手首を離してやると、斜堂が生身の人間であると認識した彼らは気色ばむ。だが斜堂に彼らの子供じみた脅しは通用するはずもなかった。
「子らが泣くは道理。あくまで道理に盾突くなら、相応の覚悟はしていただこう」
それだけ言うと、若者に何か言う隙も与えず斜堂は動いた。一番手近な男の鳩尾を突き上げ、崩れ落ちる男の体の影からもうひとりの後ろに回り、その首の後ろを強打する。素早く距離を取って小太刀を抜いた三人目はなにか心得があるようだ。正対する斜堂の次の動きを見極めようとするものの、斜堂の動きはまるで風に揺れる柳のようである。幽霊がかき消えるようにその姿を見失い、慌てて上を向いた男の顔に、天井板が降ってきた。やはり生身の人間である斜堂がその上に乗っていたものだからひとたまりもなく、男は白眼をむいて気絶したのだった。
足音ひとつたてず息も乱さず男の顔から降りた斜堂は、懐からひっぱりだした布で手を拭う。
いつの間にか泣きやんだ子が、指をくわえてじっと彼を見ていた。
なんとなく元の場所に戻った斜堂を、山田は微笑んで迎えた。その笑みを見ないようにして腰を下ろす。
ふたたび響くのは雨音ばかりとなった本堂に、山田の声はふわりと流れる。
「お子がおられるか」
「……水子でしたが」
「これはさしでがましいことを」
「いえ、」
斜堂はいつの間にか、白く煙る雨の向こうにあの春日に温む里を見ていた。
里のむすめの腹は日々大きくなり、忍務が終わった斜堂は飛ぶように山を降りた。
その日も彼は、顔に小枝が当たるのも構わず斜面を走っていた。地に足が着かぬとはこういうことだろうか。若葉が陽に透けて、翡翠の中を飛んでいるようだ。時折甘い匂いが鼻をかすめ、名も知らぬ鳥の囀りが耳に心地よい。斜堂は生まれて初めて、春を美しいと思った。
藪を抜けるといつものように煙たなびく里が見えた。水車が回り鶏が遊ぶ里の光景に思わずペースを上げようとした足はしかし、なにか名状しがたい違和感を感じて止まる。道祖神の脇を抜けぬ先からひそひそ声と眉根を寄せる里人に気付いていた斜堂は、騒然とする空気の中心がむすめの家であると知った瞬間走り出していた。
戸口にかかっていた筵を引き上げた斜堂の目にまず映ったのは、散乱する桶や釜だった。ついで囲炉裏の横に数人の人影を認めた。明りとりと戸口から入る日光だけがたよりの暗がりに、倒れ伏すむすめの下半身が真っ赤に染まっているのが目に入った。横で付き沿っていた女が何か言っているようだが、ぐわんぐわんと内耳に反響するばかりで意味をなさない。夜目が効くことを後悔したのはこのときばかりだった。血に染まった小袖の柄に見覚えがあり、それが前の晩彼女に贈ったものだと気付いた瞬間血の気が引いて、震えるのをやめた鼓膜にはっきりと女の声が届いた。
「庄屋の息子が」「ひどいことを」。
それから後のことは、まるで暗闇の中手探りをしていたように何も思い出せない。気がつけば再び山に居て、庄屋とその息子を物のように切り捨てた感触がてのひらに残っていた。装束が肌に張り付くほど上から下までぐっしょりと濡れて、舌の上にまで鉄錆の味がした。むせかえるような生臭い匂いに胃の腑がひっくりかえって、吐いたそれまで真っ赤に見えた。
返り血を浴びるとはこういうことだったか、と真っ白い頭のどこかで考えていた。久々の感触だった。
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