黴の匂いが体にまで沁み入りそうな頃、ようやく雨音が小さくなった。遠くで泣く油蝉の声がその隙に割って入って、霞んでいた夏山の緑が白い幕の向こうから現れ始める。あれから里には一度も戻らなかった。一年もせずむすめが流行病であっけなく亡くなったと聞いてからは、なおさら里に足を向ける理由もなくなって、もうかの里がどの山の向こうにあったか、それすら定かではない。その気になれば記憶の糸はつながっているのだろうが、手繰る糸の真っ赤に染まった箇所に触れるのが嫌で埋もれるままにしてある。
横の男が立ち上がって、まだ乾かぬ上衣を身につけるのがわかった。蓑から伝う水滴が自分の肩に落ちて顔を顰める。やっと小降りになったばかりだというのに、随分せっかちな男であるらしい。ひそめた眉に気付いたのかどうか、すっかり旅装を整えた山田が改めて斜堂の横に座った。小声がやっと届くほどの距離だ。
「斜堂殿」
「まだ何か」
「先程変わりないと貴殿は仰られたが、私は今子らに忍術を教えているのです」
雨の向こうから差し込み始めた夏の日差しを反射して、きらりと黒目が光る。覗きこんでくるような視線を煩わしく感じたが払いのけるわけにもいかず、斜堂は黙っている。山田が一線を退いたということは少々意外であったが人の近況に反応を返してやる趣味はない。
「貴殿が同僚であれば、これ以上なく頼もしく思われるのですが」
耳を疑った。
「私のような後ろ暗い者に、務まるはずも」
「子どもというのは不思議なものでして。誰を頼るべきか、本能的にちゃあんと分かっているんですな。
……貴殿を必要とする子どもが、きっと居りましょうぞ」
黙っている斜堂に、さらに山田は顔を寄せる。
「忍術学園をお訪ねくださればいつでも歓迎します。ああ、場所は言いますまい。貴殿なら探し当てるのは造作もないことでしょうから」
今度こそ山田は立ち上がり、笠を目深に被ってこくり、と会釈した。そうしてその姿は、糸のようになった夕立の向こうへ消えた。
横を見れば湿った跡が黴臭い板間に残るだけで、火薬の匂いひとつしなかった。
山吹咲く学園の門を青白い顔の男が叩いたのは、それから三回目の春のことだった。
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