幽影の山吹の門に入り来たること
凝、と闇が蹲っていた。
星明かり一つない夜、幾重にも枝と葉で覆われた森の中。鼻の先さえ分からぬような暗がりで、たしかにそこだけ闇が濃くなっているのだが、常人には到底感知できまい。その闇は湿った匂いを放つ切り株の後ろで、もう半刻も身動き一つしていなかった。
そのとき、遠くにちら、と鬼火の如き揺らめきが灯った。
それは段々大きくなり、やがてその松明を掲げる男の煤だらけの顔すら分かるようになった。松明の男の後ろからは、五・六人の集団が足を引きずるように、声一つたてずに附いてくる。この夜道を行くというのに、唯一の頼りである松明は随分と小さく、風にあおられ右へ左へと炎が揺らめくたび、集団の男たちの顔を順に照らし出した。どの顔も疲れ切り、煤と垢にまみれて目ばかりが火を映してぎろりと光るのだった。
この奇妙な列の真ん中は一際立派な甲を纏った男で、その前後を槍を掲げた、これまた甲をつけた男たちがしずしずと付き従っていた。
一行は押し黙り、ざり、ざり、と微かな足音のみをしじまに溶かせて、例の切り株までやってきた。そのまま列が中頃にさしかかったとき。
真ん中の男の、赤黒い染みを付けた顔が松明に照らし出される。炎がゆらりと動けば、男の顔は一層深い闇に埋もれた。その刹那、男の後ろにいた小姓は生温かい風が吹いたのを感じた。
一歩、二歩隊列は進む。ごとり、と音がして、再び炎が男を照らしだした時、その身体には首が載っていなかった。
悲鳴が上がった時、黒塗りの抜き身を握った斜堂影麿はすでに森の奥へ消えている。
地を揺るがすような鬨の声からそれほど時は経っていないというのに、眼下の軍勢は紅白入り乱れ、どんな采配ももはや雑兵たちには届かぬように見える。何百人もの怒声や喚き声が混ざって膨れて、一匹の獣が地を揺らしながら唸っているようだった。風に混じるのは火薬と土と血の臭い。
戦忍である斜堂は戦場の風下、小高い丘の大木の枝の上でその戦いを見下ろしていた。
頭巾の覆いを顎まで下げたその顔には葉の影が斑を映し、残暑厳しい日中にもかかわらず青白い。
その時不意に足場が大きく揺れて、突然降ってわいた人の気配に斜堂は縄標を構えて鋭く一瞥した。
二抱えもある幹を挟んで隣の大ぶりな枝に、鴉が、否、鴉のような黒装束が危なげもなく立っていた。やはり覆いを下げた馬面に、こけた頬、唇の上には細い髭をたくわえている。
その男は着地と同時に斜堂に気付き、おや、と首をかしげた。斜堂の刺すような殺気に気付いているにも拘わらず妙に寛いだ様子で、懐に両手を入れたままだった。
「これはこれは。お邪魔をしてしまったようですな」
男が困ったような声音で言った。斜堂が黙っていると、ふと何かに気づいたように、ああと短い声をあげた。
「もしや貴殿は斜堂影麿どのではないか。血しぶきひとつ浴びずに的を葬ると伝え聞き申した人相の通りだ」
忍びは無名、正体を知られぬことが原則ではあるが、あまりに有能な忍びは自然その名や容姿がひそやかに同業者の間で流れることがある。暗殺の妙手として名を轟かす斜堂も名を当てられたのは初めてでは無かった。なおも黙っている斜堂に気を悪くした風もなく、男は飄々と続けた。
「失礼、私は山田伝蔵と申す。見たところあれらの陣営の所縁ではない様子。貴殿も偵察に来られたか」
男の名には聞き覚えがあった。もっとも、自分の評判も他人のそれも気にかけぬ斜堂は、ただかれが優れた戦忍であるということ以外、何も覚えてはいなかったが。
「斜堂影麿ともあろうお人に偵察を命じられるとは、貴殿の城はよほど贅沢をなさるとみえる」
山田はくっくと笑って腰を降ろした。そのあまりに自然な挙措に、斜堂は縄標を握ったまま、悟られぬ程度に肩の力を抜いて応じた。
「そういう貴殿の城こそ」
「違いない」
言ってにやりと笑う。目を下界にやり幹にもたれた姿勢であっても、山田にはひとつの隙もない。もし自分が今この縄標を放てば、この木の上は眼下に勝るとも劣らぬ血みどろの決戦場となるに違いない。斜堂はうっとりと夢想する。薄氷を渡るような死闘の果てに、白刃がその首を掻き切る感触を。
そんな斜堂の内心を知ってか知らずか、山田はぽつりと言った。
「貴殿は噂以上の実力をお持ちのようだ。この私が、上がるまで貴殿の気配に気づかなかった」
斜堂は縄標を仕舞い込み、かぶりを振る。
「もう務めは果たしました。心おきなくこの木をお使いくだされ」
「かたじけない」
山田は頭をかいた。
「では斜堂殿、叶うならば再度お目通りしたいものですな。
だが貴殿を敵に回すのは骨が折れそうだ。できれば平和的な再会がよろしい」
それはどうだか、という呟きを口の中で押し殺して、一礼して飛んだ。
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