『先輩、あの、ちょっといいですか』
この伊作の問いに、深緑の制服を着た委員長が少々警戒しながら振り返った。伊作がそうやって一呼吸置いて何か頼む時は、大抵振り返るとろくでもない光景が広がっていることをよく承知していたからだ。それは広げてあった生薬の在庫帳が一面墨染になっていたり、畳中に細かな粉薬の粒が埋まっていたりする。六年のなかではぼんやりしているという評判の人であったが、泣きそうな伊作を慰めて、後片付けを毎回手伝ってくれるのはこの人だった。
ちらと走らせた目線が、畳は綺麗なままで硯もひっくり返っていないことを確認して僅かに安堵の色を浮かべる。それが伊作の見上げる両目と会い、
『どうしたの、伊作君』
『同級の立花仙蔵なんですが、さっき四年生が狐だって。そんな訳ないですよね?』
そりゃそうさぁ、またあいつら余計なことを言って、と即座に笑顔が帰ってくることを伊作は期待していた。ところが、
『え、何、聞いたの?』
と保健委員長の顔に渋面が浮かぶ。
『はい、あの、そこで座ってた四年生から…』
『あーあ、そこまで広まっちゃったか…』
『そんなの、でたらめですよね?』
なんだか煮え切らない委員長の態度に不安を感じながらも、畳みかけるように彼は聞いたのだが。
『…それを私に聞かれてもなあ。私も友達から聞いただけだから。…どうも、君らより上の学年の間で広まってるようだよ』
『え、でもそんなまさか、狐だなんて』
『そう思うだろう?僕も別段信じてるわけじゃないけどね。…でも彼の体格は独特だよね。男の子にしては骨が細いけど、それにしては筋肉もついてるし。やっぱり、人間離れしてるのかなぁ』
などと、聞かせるでもなくぶつぶつ呟くものだから、伊作の不安は高まった。
『先輩ー、どっちなんですか』
ついに袖を引っ張って回答を迫った伊作に、
『うん、保留ということで』
と、彼は満面の笑みで答えてくれたのだった。
「げ、まじかよ。六年生も?」
「ね?ちょっと気になるでしょ」
何故か伊作は満足げである。
「もっと色々聞かなかったのか?」
「それがさ、僕もそうしようと思ったんだけど、運悪く新しい一年の子が硯にけつまずいてさ、それどころじゃなくなっちゃった」
「ああ、結局…」
今度は本物の同情をにじませて、留三郎は遠い目をする。この場合、墨をぶちまけた一年と、続きを聞けなくなった伊作と、後始末をしなくてはならない委員長と、誰が一番不運なのだろうかと不毛な問いが浮かんだ。学年が変わっても、保健委員会にだけはなるまい。こうして誰もが不断の決心を固めるせいで、毎年押しつけられる羽目になる隣の級友に小声で詫びながらも、やはり決意を新たにした留三郎であった。
「あ、そういえば」
不運の錦の御旗を掲げて練り歩く保健委員会の図を押しのけて、留三郎の脳裏に浮かんだ光景がある。
「この前メシが遅くなった時に食堂行ったら立花もいてな、食べてたら廊下で四年生がコンコンって言って通り過ぎていった。俺もあいつもその時は意味が分からなかったから、普通にやり過ごしたけど。じゃ、あれはそういう意味だったのか」
「え、その四年って今日僕があった四年かな?」
「髷が短かったぞ」
「あ、じゃ別のだ」
「…てことは本当に広まってるんだな」
「うん、思いつきで言ったんじゃないみたい。それも四年生にねぇ…一二年が面白半分に怖がってるなら分かるんだけど」
何となく会話が途切れて黙り込んでしまった二人の上に、押し被さるように雨音がひっきりなしに響く。湿気を吸ったか、それとも気のせいか、暖かなはずの綿入れの布団がしっとりと重い。
彼らを外界から隔ち、守ってくれているのは障子一枚と、隣の会話まで聞こえる薄い土壁でしかないと思うと何とも心細いような気がした。夜気を含んだ空気が、どこぞの隙間から入り込んで留三郎の鼻先をすうっと撫ぜていく。
「ね、仙蔵って確か、実家が都の方にあるとか言ってなかった?」
「都の…そうだっけか」
「そうだよ、それも伏見」
伊作の、留三郎のよりも一段と高い透明な声が留三郎の予感を裏付ける。
「…いや、まさか。ただの偶然だろ」
「だよねぇ。伏見だってお稲荷さんばっかり立ってるわけじゃないんだし」
笑って返す自分の声が、ほんの少し上ずっているような気がした。
「でもね、言われてみて思い出したんだけど」
「まだ何かあるのかよ」
「前に女装実習した時、あからさまに本名と近いとよくないっていうんで、偽名を考えさせられたじゃない?」
「あー、あれか。お前はなんだっけ?妹子?」
「それは三年ろ組七松小平太の。…大体、名乗る前に同級の長次が止めてたよ」
もし表情が見えていたのなら、鼻に皺をよせて見せる伊作が見えただろう。更にもう少し明るければ、あからさまに不愉快気な口調とは裏腹のきらめきがその双眸に見えていただろうが、とりあえず留三郎は耳に頼るしかなかったのでこれ以上妙な名前を出すのは控えた。
「で、仙蔵は玉藻」
「…玉藻御前?」
その名を出せば、心なしか部屋の暗さが一段と増したような気がした。今は昔、鳥羽上皇に仕えた絶世の美女にして金毛九尾の妖狐は、正体がばれると那須に下り人を喰ったという。調伏されてからもその怨念は凄まじく、毒気を発する殺生石となって近づくものを片端からあの世に送っているというその伝説は、恐ろしい怪談として昔聞いたことがある。
「あとさあとさ、町に降りる街道の傍に、農家があって黄色い大きな犬を飼っているじゃない?」
「ああ、あの犬な」
その犬は気性が荒いことで生徒の間では悪名高く、彼らも一年生の時は傍を通るたびにびくびくと足音を潜めたものだった。だがもう大概に年を取ったのか、最近では吠え掛かりもせずに日がな一日小屋の中で大人しく余生を送っているという。
「この前合同演習の帰りにあの犬小屋の傍を通ったんだけど、僕たちは何でもなかったんだ。それがね、仙蔵が横を通った瞬間、もう吠えるのなんのって。夜盗が入ったってかくは吠えまいってぐらいの勢いでさ、つい振り向いちゃったよ」
「…何が言いたい」
「狐と犬って昔から仲が悪いものって決まってるんだってね」
でんでろとでも効果音をつければよかったのだろうか。妙に芝居が掛かった口調で伊作が申し渡す。
「そういえば仙蔵稲荷ずし好きだし」
偶然だろ、とは何となく言いづらい雰囲気になっていた。
「嫌なこと思い出した」
「え。それ言わないでいいよ」
「一ヶ月くらい前の、新月の夜にな」
「言わないでったら!!」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ伊作を無視して話を進めたら、枕を抜かれた。布団があるとはいえどごく薄いものなので、鈍い音とともに後頭部が板間の感触を思い知る。
「…っお前な」
手を伸ばすと、片腕で宙に吊られていた枕に指先が触れた、ので即座に奪い返す。
「だって黙らないから」
むくれた声で伊作が言った。
「まあ、聞けよ。俺だってこんな話一人で抱えてるの嫌なんだから。それでな、新月の夜あいつとすれ違ったんだけど…」
「何ー?!」
言うなと言いながら、伊作は布団に潜るでもなく耳をそばだてているらしい。存外にはっきりした声であった。
第3章へ mainへ