葛の葉
「ねぇ、仙蔵って尻尾無かったよね?」
ぼたぼたと大粒の雨が板張りの屋根に響く夜長であった。
同室の少年がそんなことをいきなり言う出すものだから、夢境を半睡半醒で気持ちよくさまよっていた留三郎の意識はむりやり引き戻されてしまった。だが、目を開けたとて燈明を消した部屋の中は真っ暗だ。
「は?」
声が変わりきっていないせいで、素っ頓狂な高さが出る。
「いや、だから尻尾。生えてないよね?」
「…立花に?」
「うん」
「んなわけあるかよ」
不運が過ぎて頭に風邪をひいたのだろうかと呆れた留三郎は、寝入りの気持ちよさの余韻が冷めぬうちにと、しっかり目をつぶる。
そこへまた。
「仙蔵はさ、狐だって」
「え」
果たして自分は本当に起きているのだろうか。もしや、これはすでに夢の中なのではあるまいか。一年の時から伊作とは相部屋だが、そんな訳のわからないことをいきなり言いだすような質ではなかったのだけれども。
返答に疑念と不機嫌さが滲み出ていたのであろう、伊作が慌てたように付け足した。
「いや、僕だって信じているわけじゃないけど。…今日、四年生が噂しているのを聞いた」
「噂って、その、立花のことか」
「うん」
もうこうなったらしばらく眠るのは諦めた方が良さそうだ。ままよ、と目を開け、柔らかな眠気の残滓がこぼれおちていくのを少し惜しみながらも身を起こす。半身をひねって隣を見れば、闇の中にうっすらとうずくまる伊作の影があった。どんな顔をして言っているのか睨んでやっても、いまだ三年の彼に惜しいことながらそこまでの夜目は聞かない。
「その、奴が…狐?」
「そうなんだよー。ほら、委員会でさ、保健室行ったら四年生の先輩が二人だらだら喋りこんでて。大した怪我でも無いくせに、実習休めるーとか思ってるんだよきっと。保健室は休憩所じゃないのにね」
治療が終わったのならとっとと帰ればいいのに、邪魔でしょうがないんだなどと、ぶつくさ伊作はこぼす。さすがに上級生に面と向かっては言わないが、彼も色々溜めるらしい。
「四年、てそういえばい組が二学年合同組んで実習したって聞いたな」
「そうそれ、どうやらその四年、仙蔵の班にやられたらしくてね。あ、実習の内容聞いた?」
「いや、詳しくは聞いてない。なんか、旗取り合戦だと何とか」
そうそう、それ。と伊作の頭らしき黒い丸いものが頷いて、だがしかし体は起こさないままでこちらに寝がえりをうった。
上半身を支えていた腕が疲れてきたので、留三郎もばふん、と音を立てて自分の布団に背中から落ちた。二人揃って暗いだけの頭上を見上げれば、ぐずぐずと降りやまぬ雨の滴がどうしてそのまま天井板を突き破って畳に落ちてこないのか、不思議なくらいだった。他に何も聞こえぬ雨の夜であった。
「四年が一人一つ旗を持ってて、それを三年生がもぎ取るって課題だったらしいんだ。それで仙サマ、大活躍だったらしいよ」
「個人戦か」
「それは自由。組んでもいいらしかったけど…ま、決まってるよね。仙蔵のことだし」
うん、と留三郎も同意した。クラスは違っても、立花仙蔵と言う同級の出来の良さ、というか暴れっぷりはよくよくは組でも夕食時の話題になるところであった。
「独りで好き勝手に旗狩りねぇ。いかにも好きそうだな」
「ね、まあそんなわけで伸び伸びと暴れたわけだ」
「うん、想像つく」
「そうそう、それでまあその四年はこてんぱんにされたらしいんだよね」
「立花仙蔵にか」
「仙蔵に」
そう言う伊作の言葉の端にちらりと同情めいた響きがあったが、だがそれはすぐに共犯者のひそやかな笑みに変わる。普段いばり散らす上級生が、彼らの同期にのされたとなれば、これは痛快な話だ。
「で、その二人が僕を見て言ったんだけど…」
『おい、そこの三年。立花仙蔵というのがお前の学年にいるだろう』
『いますけど、それが何か?』
四年生とはいえ、保健室にだらだらと居座っていること、薬棚の整理をしようとする伊作の邪魔をしていること、それに何より、同朋について
「立花仙蔵というの」という言い方が気に食わなかったことで彼の返答は少々尖ったものになった。だが、その四年はそんな無礼を咎めるでもなく、わざとらしく声を潜めた。
『あれには気をつけた方がいい、正体は狐だともっぱらの噂だ』
『ぼんやりつるんでると、誑かされるぞ』
『そうだ、何せ不運の保健委員会だから、格好の餌食だ』
険しさを増す伊作の視線にも気がつかないまま、その二人組は散々放言し、そして大仰に巻かれた足首の包帯の存在意義を問いたくなるくらい闊達とした足振りで、保健室を出て行った。
「て、どう考えたって悔し紛れに嫌がらせを言い触らしてるだけじゃねぇか」
とりあえず留三郎は突っ込んだ。すると伊作は口を尖らして、
「だから、僕だってそんなんで信じてないってば。…でさ、念の為後から来た委員長に聞いてみたんだ」
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