巻物を読んでいるとばかり思っていた先輩が、いつのまにかたじろぐほどの真剣な目でこちらを見据えていた。
 今やだいぶ日は傾いてきていて、西向きの部屋に入り込んだ光で、先輩の顔は朱色に反射している。

「なんでですか」

「先には毒が塗ってある。限界まで濃くした奴が」

 だから下ろせ、と言外の圧力をかけられて、私は大人しくそのかんざしをそっと戻した。形のよい切れ長の瞳で言われるものだから、なかなかの凄みだ。ころり、と床に戻されたそれにも、真っ赤な夕日が差し込んできて、ざくろ石がぎらぎらと赤みを増す。血のようだ、なんて言ったら陳腐である。もっと、そう、これは先輩の胸の中で一分間に80回、几帳面に波打つ心臓の色。
 私がきちんとそれを板間に置いて、手を離したのを見届けて、先輩はふっと口元を和らげた。

「前途有望な作法委員を、まさか私の部屋の中で失いたくはないからな」
 幾分柔らかさの戻った口調でそれだけ言って、先輩はまた書見台に戻る。
 頭の動きに合わせて髪がひとたば、さらりと優雅に舞った。

「どうして」

「…なんだ」

 もうこの話題は終わりだ、と明らかにサインが出ていたが、私は我慢できなかった。
 押せば案外情の通じる所のあるこの先輩は答えてくれる。

「どうして、毒なんか」

「おいおい、悟ってくれないか。四年なんだから」

「分かりません」

「またそんな」

「先輩の口から聞かなければ分かりません」

 若干先輩の声にいらつきが混ざったのを聞いてなお、私は押した。ふう、と明らかに聞かせるための音量で溜息が洩れて、だが優しい先輩は私を拒絶しなかった。

「…最後の手段だな。どうしようもなくなったときの」

 書見台から顔を動かさずにぽんと発せられた声は、壁に跳ね返って私の耳に入った。語尾にはあきらかにこれで終わり、という頑なな語調があって、私もこれ以上は追及しない。喋っている内にも明るさの落ちてきた部屋、障子紙越しの斜陽。
 先輩はそれ以来こちらを見ず、ただ巻物を手繰る小さな音だけが鼓膜をこする。

   私は腹ばいの姿勢で、未だ先ほど手離したかんざしの前から動けずにいる。
 触りはしない。だが私の視界に入るのは、その黒と朱色の簡素なかんざしだけだ。

 私はこのかんざしの出所を知っている。
 あれはもう一年近く前になるか。三木と町に降りて遊んでいた時に、立花先輩と同室の潮江文次郎を見かけたことがあった。
 その日はたまたま市が立つ日で、往来は非常に込み入っていた。その市の端も端、怪しげな薬売りだとか大道芸だとかがいる辺りに、ござを一枚引いただけの露店で小間物やらちょっとした古道具やらを売っている店があり、そこに件の六年生はなにやら真剣な顔で座り込んでいたのだ。
 手には、あのかんざし。
 なにやら店主と値段の交渉でもしているのか、普段から良いとは言えない目つきがいっそう厳しくなっていたのをおぼえている。
 勿論、見つけたのは三木であった。
 その店の前を通り過ぎる時、ぐいと彼は私の袖を引いてきて、無言で顎をしゃくった。
 私たちはただ肩をこするほどに混んだ道を歩き過ぎただけなので、潮江先輩が私たちに気付いたとは思われない。だが、私が振り返ったその瞬間、天の配剤か何か知らないが不思議に人の流れが切れ、私は潮江先輩の持つかんざしを確かにはっきりと見たのだ。
 何故、こんな些細なことを今の今まで覚えているかと言えば、学園で一番忍者している武闘派で無骨な潮江先輩とかんざしという取り合わせの奇矯さにつきる。先輩の脇を通ってからしばらくしても、三木の両目は黒い部分が零れおちそうなほどまん丸に開いたままだったし、実際その後私たちはあのかんざしの行く末について散々熱っぽく創造的な議論を尽くしたのだった。
 その時はどちらも相手を納得させるに足る結論を出せずに終わったのだけど、二人の間でただ一つ終始意見の一致した点がある。
 今日見たことは黙っていること。
 別に、何が悪いと言う訳でもないのだ。
 あの年がら年中鍛錬で鉄粉おにぎりを食べているような人だって、かんざしのひとつくらい買うのだろう。それで、好いた女子の一人にでもやるのだろう。私個人には未だ経験が無いし理解も湧かないけれど、好きあった者同士が贈り物をすると言う話はよく聞く。
 そのことを私が級友に話したからって、何がどうなるというのか。ぺるしやの象が酔っぱらって空を飛んでいたとか、男が馬をまるまる呑んだとか、そんな荒唐無稽な話なわけでもない。二つ上の学年の先輩の恋路など、私にはそこらに落ちている蝉の死骸程度の興味しか湧かないし、おそらく周りの同級生も似たようなものなので、夕飯の時の気軽な話の種として披露してしまえばよかったのかもしれない。
 だけど、あの時の潮江先輩の、鬼気迫るような真剣さが私を思いとどまらせた。
 あの目つきは、私などの低俗な野次馬根性が夕飯のおかずにどうこうしていいようなものではない気がした。
 それは、畏怖か。
 潮江先輩には何か、これからしようとする選択如何によってはこの世が滅びるかというほどの重さがあって、私にはきっと一生、あれほど真剣に誰かを想ったりできないと直感の深い部分で感じとったフシがある。そうして、その重さが貴いものであるというのは、自分に成し得ない分ひしひしと感ぜられた。
 二人でこの同意に達した時、三木は顔色の悪いまま仰々しく頷き、こうしてあの光景は二人だけが胸にしまっておく運びとなったのである。

 そのかんざしが、ここにある。
 その先端に、恐るべき毒を宿して。




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