その薄膜を突き破る、冷たくすべらかな質感について



 宿題を教えてください、といって彼の人の部屋を訪ったのは、もう半刻も前になる。
 障子を開けたら、狭い板間に色が溢れていた。山吹、金赤、常磐、薄紫、瑠璃紺、萌黄。それらはでろりと伸びた帯であり、畳まれた小袖であり、下げ緒であり、腰布の色であった。ちょうど外を染め上げている、木々の色づきにも余裕で勝る鮮やかさに、一瞬ほうっと当てられたようになる。

「なんだ、綾部か。入れ」

 秩序も何もなくまぶしくひたすらに塗りつぶされた部屋の中で、ひと際沈んで見える深緑の忍着に身を包み、立花仙蔵その人は座っていた。
 肩に流れる真っ黒な髪の毛が、妙に浮いて見えた。

 結局宿題はそもそも基本のところで馬鹿馬鹿しいような思い違いをしていることが分かり、思い直して解いてみたら間もなく終わってしまった。用は済んだので帰ればいいのだが、何となくそう割り切った気分にもなれなくて、私は今もこうしてうだうだと板間にだらしなく寝転がっている。
 秋は人恋しいとよく言う。
 自室に戻った所で、同室の滝夜叉丸は今日も今日とて委員会で遅くまで帰ってこないだろうし、他の四年もこの時期はそれぞれに忙しい。要するに、今は独りぼっちと言う訳だ。今日のように素晴らしい天気の日には、いつもなら踏み鋤片手に単純であれど美しい労働にいそしんでもいいのだけれど、今日だけはなんとなく、自分の周りに別の気配があると言うのが心地よい。
 もし秋に人は寂しさを感ずると言うのなら、私がここにこうして先輩の傍で寝転がったり、たいして意味の無い会話を時々交わすのだって、秋のせいに出来るのかもしれない。
 私が広げてある着物をちょっとつまんだり、呆けた顔で天井の染みを数えて居ても、立花仙蔵先輩は文句を言わない。
 まさか茶が出てくるわけではないけれど(噂では、六年は組の先輩方の部屋では自動でお茶が出てくる仕組みなのだそうだ)ただ放っておいてくれる。放っておかれた私はだから、先輩の背筋を正して書見台に向かうその後ろ姿を眺めたりする。
 あちらこちらに極彩色の帯が伸びる空間の中で、先輩の完璧に結われた後ろ髪の帯はすっと床に直角に流れている。墨でひと刷毛はいたような、その律とした黒さだけが私の目に入る。
 それでも段々と日は傾いてきていて、知覚できないほど次第次第に、部屋の彩度は落ちてきているようだ。

「先輩、これ、女装束ですね」

 聞いたところで答えは明々白々なので、はじめから断定形で言った。

「ん?ああ、明日からの実習で使うと思って、広げて点検していた」

 ちろり、とこちらを向いた肩ごしの目が、一瞬かち合う。髪の毛と同じ、絶対的な漆黒。

「実習なんですね」

「そうだ。…まあ、さして遠い所に行くでも無し、三日もすれば帰ってこられるよ」

「はあ」

 なれば、今先輩が読みふけっている巻物は、実習先の機密でも書いてあるものか。
 それから私たちはぼちぼちと先輩不在期間の委員会活動についてなどの話をする。とはいえもともとあまり忙しくない委員会であるし、こういう事務的なことはどちらかというと藤内の領分であるので(三木や滝夜叉丸にそう言ったら、四年としてそれはどうなんだと真顔で意見されたが、気にすることではない。誰にでも得意とする分野はあるし、こういう目端の必要なことが得意な藤内が、彼の得意分野で活躍できるのならとても喜ばしいことだ)話題はじきに尽きた。
 先輩はまた巻物に戻り、私はぼんやりと部屋中にちらばった着物を見て回る。
 淡い光沢のある淡黄色の地に山吹・常磐の緑・金赤などのさまざまな色で円い菊紋を散らした桂。その下に着られるであろう単は若草色のさっぱりとした立涌紋の総柄である。いつ着るのか分からないが、裾にいくにつれて紅の濃くなるように染められた裳袴もある。あちらには市女笠がなげだしてあり、薄い紗の白い垂れ衣の上に、緋色の懸帯がどぎついほどに存在感を示している。
 部屋の中ほどには小物がまとめて置いてある。杏の地に白く浮かび上がる雪輪が刺しゅうされた錦の帯であるとか、色目も綾な藤や縹や朱の組み紐。どこぞの古着を仕立て直して作ったのだろう、丹念に刺しゅうのされた袋物。古いが造りのいいべっ甲やつげの櫛・かんざし。

「あ」

 その中で私はつい、小さく声を漏らしてしまった。
 手を伸ばして取り上げるのは、きらびやかな装飾品の中ではぱっとしない、艶消しされた鉄のかんざしだった。頭に簡略化された千鳥の形が打ちだしてあって、その先に小さな小さなざくろ石がなんだかもう縮こまって乗っている。
 大きさは小さいが良質の石であるらしく、深いこっくりとした照りのある緋色の石が、無骨な黒鈍色のかんざし部分とはっとするような対照をなしているのだ。

「それの先には触るなよ、綾部」




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