翌日、仮眠室で目覚めた潮江はコーヒーを求めて1階へ降りて行った。休憩室の豆は昨日のうちに切れてしまっている。時刻は朝の7時。夜勤の看護師たちが早起きの患者たちに付き添っている以外、開店前の売店とその横の自販機コーナーに人影はほとんどない。なかば機械的に砂糖なし、濃いめのコーヒーのボタンを押し、できあがりを待っているところに早出の善法寺医師がやってきた。
「おはよう、文次郎」
「おう」
「そういえば滝夜叉丸だけどね、一昨日例の件で炎天下歩き回っただろ、具合が悪そうにしてたから昨日は休ませたんだ。全く、小平太も困ったものだよね。自分が体力馬鹿だからって他人も同じだと思ってるんだから。そりゃあれだけ日頃ぼろぼろに働いてたら熱中症にもなるよ。昨日は忙しくて言いそびれたけど、今日は滝夜叉丸が来る前にちゃんと一言言っておかなきゃ」
朝からよく喋る同僚の言葉をぼんやりと聞き流す。それが常であるから別に善法寺は気にも留めない。二人の後ろでは8時の開店に向けて、今日もきり丸が売店の準備を始めている。であるから、急にそのきり丸に声を掛けられたとき、潮江は少なからず驚いた。
「どうした」
「これ、並べないほうがいいと思いますか」
険しい顔で見せられたのはよく見かける週刊誌。だが今日の日付の発売日の下、黄色で書かれた見出しに目が引きつけられた。
「O大学病院の深い闇、醜聞にまみれた医師たち? なんだこれは……」
「並べなよ」
彼にしては珍しい硬質な声に善法寺を見れば、動揺の欠片も見られない引き締まった顔をしていた。出勤の途中でこれを知ったのだろうか。
「根も葉もないことだらけだ。うちの患者さんなら分かってくれる。隠すことはないよ」
「そうっすよね。わかりました。いつも通り並べておきます」
きり丸が大きく頷いて、カウンターに戻ろうとする。あわててその背を呼びとめて、寝耳に水の潮江はその週刊誌を一部買い求めた。善法寺に教えられたページを開いた途端、そこに踊る文字に苦虫を百匹ほど噛み潰した顔になる。あまりのことに、善法寺に呼び止められるまでコーヒーのこともすっかり忘れていたほどだ。
循環器科の廊下を歩きながら田村を呼べば、やはり夜勤明けの彼がどこからともなくひょっこりと現れた。挨拶しようとするのを遮って、手にした週刊誌を見せる。
「田村、各科に伝えろ。全員粛々と業務を行い、質問を受けても自分の判断では答えるなと。9時から臨時の医師会を開く。4階の第一会議室だ」
紙面の衝撃に口をぽかんと開けていた田村はようよう一礼をして、伝令のため早歩きで去っていく。どうやら今日も、何事もなく無事にとは行かぬらしい。
9時5分。
鉢谷が最後に席に着き、大川大学病院臨時医師会が始まった。といっても例の如く、教授陣不在のため揃うのは助教授以下だけなのだが。コの字型の机を囲んだ医師たちは一様に険しい顔をしている。議題を伝えていないにも関わらず、何らかの形で例の週刊誌はすでに読んでいるらしい。
ただ会議自体は気心の知れた仲、堅苦しさは微塵もない。
「循環器科助教授の恫喝と専制の院内支配、ねえ…。僕は暴力団からの資金提供で、留さんは患者の母とただれた関係、か」
「よかったな留三郎、小児性愛者とは書かれてないぞ」
「は、文次郎、お前こそその程度でよかったじゃねェか」
もはやお約束のようになった険悪な空気を雨粒ほどにも感じず、七松が割って入る。
「まあ、反論できないのは私ばかりだな! よく調べてあるよ実際」
「……過ぎた過去を引き合いに、今のお前の資格を論じるのはおかしい」
ぼそりと呟かれた言葉に、七松は明るい笑みを零し小声で礼を言う。
「長次のことは出ていないな」
「ほとんど表に出ないからな。久々知についても書くことは無かったんだろう」
「私と雷蔵については何と?」
睡そうな目を赤く腫らした鉢谷が聞いた。
「……不破が二重人格というのは、お前とごっちゃにされてるぞ絶対」
「それは光栄だなあ」
「こんなときに馬鹿言うなよ三郎」
と、一通り所感を話し合ったところで真面目な議題に移る。こちらには非がないのだから深刻になりすぎることはない。
ともかく会議はその後マスコミへの対応と患者のフォローに話が及び、週刊誌の発売元と筆者とされる「達魔鬼」に名誉棄損の抗議を入れる、という話に落ち着いた。当面の対策はそのようなところだろう。看護師へは各科で伝え、コ・メディカルたちへは善法寺が伝達を行うこととなった。とにかく職員の動揺を抑えることが先決だ。
潮江が循環器科に戻ると、加藤や任暁が待ちかねたように視線を向けた。その顔には不安と、不謹慎ながら抑えられぬ好奇心が見てとれる。
「……、以上が決まったことだ。とにかくいつも通り仕事をしろ、いいな」
「はい。あの、これはやっぱり稗田教授の根回しなんでしょうか」
空気が凍った。田村があわあわと潮江と発言した任暁を見比べる。
「佐吉、どうしてお前がそれを知ってる」
「あ、ええと、あの、団蔵から」
「団蔵!」
「ちょ、俺は鉢谷先生から聞いただけですってば。これって秘密なんですか」
朝からの一連の出来事で、ついに潮江は頭痛がしてくるようだった。鉢谷に例の話が伝わった経緯を彼は知らないが、は組に伝わったということはつまり、もう病院中がそれを知っているということだ。今朝の雰囲気からしてさすがに患者のほうにまでは伝わっていないようだが、改めて緘口令を敷いておかねばそれも時間の問題だろう。
田村以下目があってしまった職員たちが戦くのも知らず、潮江は虚空に浮かぶ便所サンダルと白衣を力いっぱい睨みつけたのだった。
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