その日の午後は二件の手術に加え予想外の事態への対応もあり、まさしく荒波のようだった。いや、荒波を感じているのは潮江だけではなかった。この大川大学病院は今や大海に浮かぶ一隻の小船なのだ。昨日までの不穏な空がついに牙を剥き、雨中の船は大きな横波を受けて右へ左へと大きく揺れている。それでも、ノアの箱舟の如く職員たちの生活と地域の医療を積んだこの船は、決してここで沈むわけにはゆかないのだ。
夕刻循環器科の自室に戻ると、暗い室内に小さな赤い光があった。机に置いていた携帯の着信通知だ。プライベート用のそれを開けば不在通知が5件。うち3件は「発信者:立花仙蔵」とあった。すこしためらったのち、光る画面を操作してその最後の一件を選択する。発信ボタンに触れたところで控え目なノックの音が響いた。
携帯を閉じ、短くいらえを返す。すぐに同じくらい遠慮がちなノブを回す音に続いて半分ほどドアが開き、意外なことに田村ではなく外科助手の平滝夜叉丸が顔を覗かせた。いまだ電気も点いていない室内に形の良い眉根が寄せられる。
「おやすみでしたか。失礼しました」
「いや、いいんだ。何か用か」
携帯を胸ポケットにしまい、入ってこようとしない平に代わって自らドアに近づいていく。その薄暗さでもそれとわかるほど平の顔は蒼く血の気が引いている。
「まだ具合が悪いんだったら……」
「いいえ大丈夫です。そうじゃないんです」
勢いよく首を振るので、長めの髪がその顔のまわりをばらばらと踊る。
「あの、例の週刊誌のことで」
「ああ……?」
「……っ、申し訳ありません!」
いきなり深々と頭を下げた平らに、潮江は目を白黒させた。理由を聞こうと促す前に、平は自分から堰を切ったように話しだす。
「一昨日、例の患者を捜索中のことです。喜八郎を探そうと大学に行ったのですが、そこで記者を名乗る男に話しかけられたんです。もちろん最初は取材なら直接病院のほうに申し込んでくれと言ったのですが、正式の取材ではなくあくまで予備調査だからとしつこくて、私もとにかく座りたかったのでつい同行を……。そのまま30分ほど構内の喫茶店で話をしました。ですが誓って私はあんなことは言っておりません。ただ、私の話を曲解したり断片を繋げればあの記事の元の元くらいにはなったのかもしれません」
そのまま土下座までしそうな平を何とか押しとどめる。確かに調子に乗って喋りすぎるきらいのある平だが、いくら何でもあのようなことを言うとは誰も思わない。大体冷静に考えてみれば。
「一昨日話したことが今朝の発売に間に合うわけがないだろ。少なくとも今回の記事は情報源はお前じゃない」
どちらかといえば不得意であるにも関わらず蒼白の平をひたすら宥めすかして、ようやく彼が落ち着いた頃には潮江の方が疲れきってしまった。ひとつ思い付いて、すっかり小さくなった平の背中を呼びとめる。
「なあ、小平太とちゃんと話したか」
「え」
「お前のことだから、また忙しさに流されてなあなあにしてるだろ。無理だと思ったらちゃんとあいつに言うようにしろ。あいつも悪いが基本は自己管理だ」
「はい…」
「まあ、そうしょげるな」
ぽんぽんとその頭をたたく。
「伊作は後輩に甘いから、俺が代わりに言ったまでだ。それより小平太が伊作に説教されて相当しょげてたぞ。あとで会いに行ってやってくれないか」
とまどいを含んだ視線に見つめられて、自然と潮江は苦笑した。
「俺たちが言うより、お前から直接言わんと元気が出ないらしいからな、あいつは」
ほんのわずか明るくなった表情の平が去ってふたたびドアを閉めれば、夕刻のおぼつかなさに代わってカーテン越しの街の明かりが部屋を青く浸した。ひじ掛け椅子に座り、今度こそ発信ボタンを押した。耳慣れたコール音がきっちり3回。
「はい立花……、なんだ文次郎か」
いつも通りの言いようだが、さすがに疲れの滲む声だ。
「今日学会に出たらやたら視線を感じてな。なにかと思ったらあの記事だ。どうなってるんだ全く」
「ああ」
「病院のほうはどうなってる」
「朝から電話が鳴り通しだが、みんなよくやってくれてる。患者にも目立った動揺は無い」
「そうか」
合間に聞こえたため息を潮江は聞き逃さなかった。いつもなら聞かなかったふりをしてやるところだが、潮江が勤務中なのを知っていて3回もかかってきた電話、その背後にあるものを考えるなら、今日ばかりは踏み込むことも必要だろう。
「なあ、書かれたこと気にしてんのか」
「馬鹿言え」
「声が震えてる」
一瞬の沈黙。潮江には電話の向こうの立花の、目線をそらす仕草まで容易に想像できた。
「はっ、冷酷非道な人体実験で名を成した、だと。酷い言われようだ」
「自分は微塵もそんな風には思ってないんだろう」
「当たり前だ。当時あの症例は治療法が解明されていなかったんだ。もう開頭手術以外手の打ちようが無くて、斜堂先生と私は最善を尽くした。だが患者は救えなかった。ただ術式の記録から発見があって、それが医学上有益と思われたから発表した。それだけのことだ」
「おかげで治療法が確立されたんだろ、医学じゃよくある話だ。医療関係者なら誰も人体実験だなんて思わない」
「分かってる!」
「じゃあまだ引きずってるのか、あの子を救えなかったこと」
「うるさい黙れ」
あの澄ました立花仙蔵がこんな風に子供っぽく怒るなど、後輩たちは知るべくもないだろう。案外分かりやすいくせにプライドが高いのだから手に負えない。
「明日の何時の便だ」
「3時に羽田に着く」
「そうか……。なあ、なに言われたか知らないが、気にすんな。あと早く帰ってこい」
「迎えにも来れないやつがどの口で言う」
「はは、悪かったな」
それから二、三やりとりをして電話を切った。携帯の画面を閉じればその分暗く沈みこんだ手元から、夜の帳が部屋全体に染み出してゆく。空調の風でカーテンが揺れて、机の上の小物の影もゆらりと揺れた。睡魔に呑まれんとしながら、まるで海の中にいるみたいだ、と思った。
さてその海の底、イルミネーションがゆらめく夜の繁華街。喧騒の中、勤務を終えた中在家長次と七松小平太が並んで歩行者天国を歩いていた。夕飯はラーメンと決めて、どのそこの店は出汁がいだの焼豚が旨いだのと言いあっている。その時七松の肩を軽く叩くものがあり、彼は足を止めて振り向いた。と、その顔が凍りつく。
「久しぶりだな七松」
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