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 正面入り口のグラスのドアをほとんど押し破るようにして入ってきたのは、潮江文次郎医師と山田利吉であった。任暁が立って迎える。

「すまん、思ったより交通規制がひどくて遅れた。例の患者は?」

「10分ほど前、救急へ搬入されて今は様子見です。軽い発作を起こしていたようなのですが、幸い救急隊員に発見されまして、応急手当がよかったので今の状態は安定してます」

「そうか…よかった」

「はい。あ、田村先生は記者会見の準備で、担当医は一時的に七松先生になってます」

「担当看護師は」

「加藤のままです」

「分かった。それが一番だろう、よくやってくれた」

「いえ、私はただの連絡係で…」

 言葉を交わしながら足早に移動すると、すぐに一行は救急センターへ着いた。祭りで盛り上がった勢いでどうやら喧嘩でもあったのか救急は随分と混み合っており、その中で大柄の七松が頭一つ飛びぬけて飛び回っている。平均体型の潮江や山田、背の低い任暁などは埋もれてしまいそうであったが、背の高いせいか七松は目ざとく見つけだして大股で飛ぶように近寄ってきた。

「よう」

「小平太、南野園さんは?」

「ここはうるさいからな、循環器科に移したよ。はい、カルテ。でも、容体は落ち着いてる。明日の手術も大丈夫だと思う。ま、私が判断する事じゃないけどな!」

 それから、彼はひょいと悪戯っぽく唇の端をめくり上げて囁いた。

「あ、でも今行かない方がいいかも。隠し子が居たとかで、今もめてるんじゃないかなー」

 あんなに枯れて見えて、結構サカンらしい、と七松は呵呵と大口を開けて笑い、また別の搬入者の方へすっとんで行った。

「相変わらず、凄いなここは」

「市内に救急センターはうちともう一か所しか無いんですよ。何かあるともういっぱいいっぱいで。」

 救急を後にしながら、潮江はそういえば今日は珍しいことに平の姿を見ないとぼんやり思った。



 循環器科の個室の前で、きちんと直立不動で田村が待っていた。

「先輩!と、利吉先生」

 少し疲れたように見える田村の顔面に一瞬ぱあっと喜色が広がり、だが同じくらいの早業でそれは消え去る。すみませんでした、と謝り始めるのを止めて、潮江はまず患者の様子を聞いた。

「はい、容体は安定しています。心電図に若干の不整脈は見られるものの、ベースラインから大きな違いはありません。それと利吉先生、こちら、記者会見の資料です。先生が交通規制で遅れると言うことでしたので、今回は型通りの形式で済ませました。術後の会見で質問を受けていただくことになりそうです」

「分かった。用意しておくよ」

「それで田村、患者の失踪のことは」

「患者を探していることは漏れていましたが、それが南野園さんであることは知れてなかったようです。探すときに個人名は出さないように指示してましたから」

「そうか、ならよかった」

 肺の奥底から息を吐き出して、潮江が嘆息した。潮江にとって、田村にとって、加藤にとって、そして捜索に携わった全てのスタッフにとっての長い、長い一日がようやく終わろうとしていた。



 結局。

 カンファレンスは予定通り行われ、翌日の手術は成功した。田村が詳しく説明したところによると、南野園は八年前、飲み屋の女将と不倫をして出来た隠し子がいたそうで、リスクの高い手術の前に会いたいと思ったものの、秘密にしてきたので家族に頼むわけにもいかず、結局一人で抜けだしてしまった、ということだったそうだ。

「はあ、ハタ迷惑な」

「まったくです」

 全てが終わった後で、コーヒーを啜りながら潮江と田村は鏡のようにそっくりな顰め面を作った。

「それで、神崎と次屋が偶然通りかかったんだな」

「そうみたいです。その女の子の家まであと少し、と言うところで不整脈が出たらしくて。あの二人が来たから良いものの、もし手当てが遅れていたらと思うとぞっとします」

「で、なんでパトカーで搬入なんだ」

「あの日は祭りでどこも混んでましたから、たまたま交通整理をしていたお巡りさんが近くに居て、それで乗せてくれることになったらしいです。智吉さんとか言ってました。パトカーなら、交通規制の区間も通れますし」

「ああ、それは上手くやったな。ったく、一般車だとひどい渋滞だった」

「しょうがないですよ、特に今年は異例の盛り上がりだったみたいですし。で、次屋が南野園さんについて、神崎はその子を迎えにいったんです。不倫相手だった女将は、その子が生まれてすぐ亡くなっていて、その子は女将の母親の家で育てられていたそうなんです。事情を話して神崎が連れ出して、でまあ子どもの方も五歳くらいでしたから」

「迷った、と」

 長く暖め過ぎたか、コーヒーがやけに苦い。

「まあ未遂ですか、富松が回収してましたから」

 あの後、南野園発見の報で探しに出ていたスタッフが全員病院に残るなか、探す対象が違った富松だけは戻れず歩き回っていたらしい。カギは、何度目かの通話の際に背景に混ざった神輿のかけ声だったとか。神輿のルートを逆に辿り、ついに富松は二人組を見つけて病院へ連れて帰ってきた。まさかの隠し子出現にある程度のドラマはあったものの、ふたを開けてみれば女の子が欲しかった南野園の奥さんはすっかりその子のことが気にいってしまい、また母親がすでに死去していることもあって、高齢になっていた祖母の代りに女の子を引き取る話がトントン拍子に運んだ。目覚めた南野園にとっては、四方まるく収まったのである。




「あ、文次郎に三木ヱ門。おつかれー」

 休憩室の扉を開けて入ってきたのは善法寺であった。

「ここのところ、なんか大変だったんだって?僕は僕で忙しかったから手伝えなかったけど」

「いや、大丈夫、なんとかなった。そっちも面倒なこと抱えていたらしいな」

「うーん、まあ一時はどうなるかと思ったけどね、お金も帰ってきたし、あのタソガレ組の患者さんも指を詰めずに済んで、本日退院」

 話しながら、善法寺が自分用にインスタントコーヒーを入れた。山もり一杯のクリープがさらさらと溶けて行く。

「その話だが、どうやって金を返させたんだ?うちの佐吉が左近から聞いてきたが、意外とお前が怖いって評判になってるぞ」

「えー、いや、あの教祖の持ってる心臓病ってのが、神経性のでね。自分の心臓病も治せないってことを公表しますよって言ったら意外と素直だった。雷蔵のとこを紹介しといたけど、どうかなあ、心臓の痛みは神経性で本当はどこも悪くないって本人が気がつかないと治らないから」

「心臓神経症か」

「うん、それ。念のために検査もしたんだけどね、やっぱり神経症みたい」

 コーヒーを一口飲んで、伸びをする。内科だけでなく救急も手伝うことのある彼が、実はかなり疲れていること、それを表に出そうとしないことは潮江はよく知っていた。そういえば、善法寺が自分用だけでなくもう一つ甘めのコーヒーを作っていることに気がつく。

「あ、これ?長次に持っていこうと思って。なんか生検室に籠って何かやってるんだ。珍しくすごい怒ってるみたいけど、どうしたんだろう」

「本当か」

「聞いてもあんまり教えてくれないんだけど、この前の治験の資料をね、こうバーっと机に引っくり返して」

 そうして、本当にバーっとその様子をジェスチャーしてくれたので、右手に持ったままだったコーヒーが跳ねて白衣にかかった。

「あー、また染みが…」

 染みができるたびに強力な塩素で漂白されている善法寺の白衣は、真っ白な割に生地が傷んでどことなくみすぼらしい感じになってしまっている。

「はあ、また洗濯かな。とりあえず、根を詰めるのは良くないからね、長次にコーヒーを届けたら僕は帰るけど、文次郎も帰り際に声かけて行って」

 じゃあね、と三木にも手を振り、だいぶ量の減ってしまったコーヒーを手に彼は休憩室を出て行った。願わくは、彼の行く手に突然暴走ストレッチャーだとか、いきなり蹴躓く入院患者だとか、ワックスの染みだとか、乱暴に開くドアなどが現れないことを。



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