アスファルトに反射した熱は陽炎を作り、ぴくりとも動かない空気は熱波となって全身を包む。タクシーを止めたせっかくの木陰でさえ、頭上から降り注ぐ蝉の合唱のおかげで暑苦しいことこの上ない。もっとも、同僚に言わせれば暑苦しいのは潮江本人だということになりそうだが。
煙草を買うと行って途中コンビニに寄らせた利吉を、潮江はタクシーに寄りかかって待っていた。煙草くらいこちらで買うと申し出たのだが、自分で買わないと禁煙の動機にならないからなどと言って、ひとりで買いに行ってしまったのだ。
そのとき、胸ポケットの携帯が震えた。着信は田村三木エ門。
「どうした」
「あ、潮江先生。ご報告しなければならないことが・・・。今利吉先生はご一緒ですか」
「いや?」
むこうでほっとため息をつく気配がする。この助手には珍しく歯切れの悪い様子に、潮江は直感した。
「バチスタの患者に何かあったか」
あからさまに息をのみ、うろたえる田村。ややあって、震える声が流れてきた。
「はい…、その、南野園さんが、行方不明なんです」
「なに!?」
気をつけたつもりなのだが、やはり携帯を通して聞いた己の声は怒声に近い。こういう時こそ冷静であらねばならないのに、と潮江は額に手をやった。
「わ、私の監督不行き届きです。申し訳ありませんっ」
「いや…。それで、心当たりはあるのか」
「いいえ…。っ、ですが、今、動ける職員総出で探してます。失踪からそれほど時間はたっていませんからおそらく」
「警察には連絡したか」
「は・・・いえ」
「バカタレ、なにやってるんだ」
「で、でも大がかりな捜索となれば表沙汰になります・・・っ。病院の信頼も、潮江先生のお立場だって、」
聞こえてくる声にはすでに涙が混じっていた。病院で独り、プレッシャーと焦りに押し潰されそうになっているであろう彼の心情を思えば無理からぬことなのだが、部下の心の傷はあとで癒すことができる。事態は急を要するのだ。ついつい声が高くなった。
「バカタレィ、今そんなことに拘わっている場合か! 患者の容態は分かっているだろう。あらゆる手を尽くせ。責任は俺が取る」
「は、はいっ」
声が遠くなったところをみると、聞こえる音量に慄いて耳から携帯を離したのかもしれない。田村は有能だが、こういうところが軟弱である。とにかく早くしろとだけ言って、潮江は電話を切った。振り返れば、袋はもらわない主義の利吉が煙草とペットボトルのお茶二本を持ってコンビニを出てくるところで、気を遣わせてしまったという後悔と利吉にどう説明しようかという思案で、暑さの中気が遠くなりそうだった。
さて、病院の職員たちが額に汗して街を探しまわっている頃。冷房のおかげというよりは、年季の入った石造りの建物特有のひんやりとした空気の中、綾部喜八郎が薄暗い廊下を歩いていた。ここは彼が院生として所属する大学の、生命倫理学研究第一棟の二階である。この建物はかつては教授たちの研究室や院生の控室が並んでいたものだが、すぐ隣に新しい8階建ての建物が出来てから、生命倫理学研究科の主な機能はそちらへ移り、今は専ら資料庫及び学生たちのさぼりの場として使われていた。しかし平日の午前中とあって、学部生や修士課程の学生たちは講義に出席しているか、家で寝ているかしているのだろう、綾部がこの建物に入ってから、まだ誰とも行き合わない。
その静寂に遠慮するわけでもないが、綾部は足音をほとんど立てなかった。これは彼の癖である。すり足で歩く上に、このごろ足元は常にくたびれたゴム底のグラディエーターなのもその理由であった。そうして綾部は、ホルマリン漬けの豚の胎児やら埃をかぶった人体標本やら何語ともしれぬ題字の書物のならぶ廊下を、小声で一昔前の流行歌を歌いながら歩いている。
「も、もいろーのかたおもーい あーいしてーる」
どこで習い覚えたものか、歌詞にそぐわぬ無表情。ともかくどうして彼が畑違いの生命倫理学研究科にいるかといえば、彼が心酔する先輩に頼まれた任務を果たすべく、生命倫理学部学長・稗田八宝斉の身辺を探るつもりだったのだ。この棟に行けば自主休講中のゼミ生にでも会えるかと思ったが、研究室から一日中一歩も出ないような生活を送っていたせいで、一般学生の生活時間の感覚を失っていたようだ。だが涼しいし、研究室へ戻れば滝夜叉丸が追いかけてくるかもしれないし、などと考えながら散歩気分であった。
その時ふとした空気の流れに乗って、低い声が耳に入った。確信があったわけではないが、綾部の歌はすぅ、と尻が消えて横のチンパンジーの口の中へ吸い込まれる。相変わらず足音を消したまま、声の聞こえたほうへ寄っていくと、そこは普段は鍵がおりている生命倫理学資料編纂室であった。中の電気がつき、人影が動くのを見て、われ知らず扉の横に身をひそめた。
「それで、例の件はどうなりました」
先程の声に続いて、扉の向こうから聞こえてきたのは稗田八宝斉そのひとの声であった。おやまあ、と息だけで呟く。
「まあなんとも・・・。しかしですな、学内で支持固めの目処はつきましたわ。大川はお気楽に外遊中であるし、抵抗勢力といったって若造の助教授どもですからな」
「そうですか」
「それより、厚労省のほうの根回しはそちらにお任せしてよろしいんでしょうな」
「ええ。古狸の部長連中は、自分に不利が無いとわかれば何も口出ししませんよ」
「それは安心ですな。あとはあの薬の完成を待つだけだ」
「完成すれば歴史が動きます。画期的なことですよ」
「その栄誉に連なることができるとはまったく光栄の極み。ちゃんとお膳立ては整えてお待ちしますからな」
「よろしくお願いします」
小さな窓に映る人影が大きくなったのを見て、綾部は咄嗟に周りを見渡した。室内から溢れ出たと思しき書物が積まれていたが、どの山も綾部の膝上くらいまでしかない。隠れるのを諦め、腹をくくった。
ドアを開けて出てきたのは、スーツをきっちり着こなした、白眼の目立つ30代半ばの男であった。じろり、と綾部を横眼で見て足早に去っていく。続いて部屋を出てきた稗田は、綾部よりも頭一つ分低い体格ながら、異様に大きな頭と鋭い眼光、天をさすように上向いた顎が威圧感を与える初老の男である。年齢の割に黒々とした頭髪を丁寧に後ろへ撫でつけている。稗田は綾部の姿に少なからず驚いたようで、ぎょろりとした目をむいた。
第8章へ
mainへ