こめかみが凝っている。
田村はぐりぐりと頭のツボをもみほぐしつつ、おそらくコリの三割くらいの原因を作っているであろう目の前の綾部を恨めしげな目で眺めた。
あの後、彼は悠々と泡を洗い流し、腰を抜かした猪名寺の代わりに任暁が慌てて取りに行った備品のバスタオルで体を拭いて、可及的速やかに内科スタッフルームまで連行された。田村が予定されていた診察を一通り済ませて戻ってみれば、ちっとも悪びれない顔の綾部はソファーにだらしなく座り、田村の私物のマグカップからコーヒーをすすったりしていた。
コーヒーテーブルの上には、どう見ても4本以上のスティックシュガーのごみが散らばっている。
「…で、なんでシャワールームになんて居たんだ?」
「シャワーを浴びるため」
「いや、そうじゃなくて!シャワーならお前の部屋にあるだろ」
だからなんでそこで首をかしげる。
もみほぐしたはずのこめかみが一層重くなるのを感じて、田村は叫び出したい衝動に駆られた。
「ないよ」
「は」
「だからシャワーが無い。ていうかお湯が出ない。今日寒いし」
「なんでお湯が出ないんだ?工事でもしてるのか」
「わかんない。そもそも滅多に帰らないし。一週間ぶりに帰ってみたら、お湯が出なかった。あと、コンロも使えなかった」
しゃあしゃあと言ってから、なんでだろうね、とコーヒーを味わう綾部の後ろで、たまたま会話が聞こえたらしい任暁が、それってもしかして…と恐る恐る言いかける。手で制した田村も、思うことは同じだった。
「喜八郎、もしかしてそれ、ガス止められたんじゃないか」
「ガス…あー、そういえば最近払ってなかったかも。口座を変えてからどうもお金が減らないと思ったけど」
「お前なあ…」
がっくりと脱力した田村は、無言で綾部の手からマグカップを奪い取ると一口啜った。カフェインでも大量に摂取しないことには、残りのシフトを乗り切れそうにない。
とはいえ、余りの甘さに思わず顔をしかめ、押しつけるようにして綾部に返した。綾部は大学の研究室に寝袋を持ちこんで、ほぼ自分の居住スペースにしている。彼が借りている安アパートは、ほとんど着替え置き場でしかない。
「で、ガスが止まってシャワーが使えないからって、なんでうちの患者用のシャワールームを使うんだ。銭湯か、大学のトイレにシャワーがあるだろう」
「だって、病院の方がうちから近いし」
「せめて宿直室のを…」
「だってあそこ暗いし、幽霊が出そうで」
いや、出ないからと突っ込みをいれた瞬間だった。控室のドアがばーんと開き、平外科助手が飛び込んでくる。
「三木!大変だ」
勢い余ってよろめいた平の顔色は真っ青である。思わず田村も腰を浮かした。
「…え、喜八郎?なんでお前がここにいるんだ」
「シャワールームで素っ裸で発見されたのを、保護したんだ」
と、田村が説明した。言外に、もうこいつの問題で手いっぱいなのだから、これ以上何か持ち込んでくれるなと匂わせてみる。
「はあ?」
「アパートのシャワーが止まっててさ、嫌になるよね」
「それはお前が支払い忘れたのがいけないんだろうが!」
「喜八郎…だからあれほど、郵便物は中身を見てから捨てろと言っているのに」
深く、深く溜息をついた平をしり目に、綾部は飄々としたものである。コーヒーを飲みほして、ぽんと両手を叩いた。
「あ、そういえばそもそもシャワーが使えないから病院に来たんじゃなくて、立花先輩に会いに来たんだった」
「立花助教授なら、今朝から学会出張で居ないぞ」
「なんだそうなの。じゃ帰る」
さっさと立ちあがりかけたところを平が制して、
「まあ待て、またお前のことだから研究室にこもったら一週間は出てこないんだろう。伝言くらい聞くぞ?」
「いい、秘密の話だし」
「秘密?なんだ、私たちには言えないようなことか」
「特に三木にはね。だって、三木に言ったら全部潮江助教授に筒抜けになるでしょ」
「な、僕が伝えるのは、そうした方が病院全体の利益になると思うからだ。潮江先輩はあれで病院の若手医師のまとめ役でもおられるし」
「でも、私が用があるのは立花先輩だから。滝こそどうしたの、前髪乱れてるよ」
その言葉に本来の目的を思い出したか、血色の戻りかけていた平の顔がさあっと血の気が引いた。
「そうだ、大変なことが起こったのだった。さっき浦風師長が知らせに来たんだが、この前救急に運ばれてきたバチスタの患者、利吉さんが執刀する予定になっているだろう、あの患者が、行方不明なんだ!」
「なんだって?!」
その言葉を聞いた瞬間、田村の顔色も平と同じくらいに色を失った。
「脱走したのか」
「恐らく。病室から荷物一切と一緒に消えていた」
「まずい、まずいぞ。あの人、大きな発作からやっと回復したばかりだ。本当は立ちあがって歩くのだって禁止したいくらいなのに、外に出たりしてまた発作を起こされたら…」
「死んじゃうね」
と綾部。ばちんとその頭をはたいてから、田村はおろおろと立ち上がる。
「なんてこった…。それに、このバチスタには病院の命運がかかってるんだ、そのために利吉さんにもお越しいただくのに…執刀前に患者に何かあったらすべてぶち壊しだぞ」
ちら、と時計を見る。今の時刻、10時半。利吉が病院に到着するのが12時、術前カンファレンスが開かれる予定になっているのが2時半。最悪でも2時半までには連れ戻さなければならない。そうでないと、海外から執刀医を招聘しておいて、肝心の患者が行方不明などという失態を病院中にさらすことになる。それこそ、あえて助手に甘んじてでも山田利吉に執刀を頼んだ潮江の面目が立たないではないか。
そして何より、無理をすれば患者の命が危険だ。
頭の中で最悪のシナリオが駆け巡る。
「三木、どうする」
滅多に人に物を聞いたりしない平までがそんな台詞を思わず口走った所を見れば、相当に動揺しているのだろう。ああ、こんな時に潮江先輩が居れば。あの人は普段は面倒くさいけれど、こういうときは肝が据わっていて頼りになるのに。いっそ立花先生でも良い。この不手際に冷めた目でキツイ一言が降ってくるのは目に見えているが、それでもあの人が一声かければ病院が動く。
「…すぐに探しに、ってこの後術前の面会予定が…。とりあえず、浦風師長に話を。あと担当の看護師誰だァ!」
なんでこんな時に教授も助教授も揃っていないのか、とうっかり最高責任者になってしまったわが身を呪いつつ、三木は平と共に浦風を捕まえるべく廊下を駈け出したのだった。
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