さて数時間後の救急センター入院用病棟では、珍しく落ち着いた雰囲気が流れていた。
 この初夏の爽やかさのおかげか、午前中に運ばれてきた患者は飴を誤嚥したお年寄りだけであり、昨日よりはずいぶん人間らしくなった滝夜叉丸が担当していた。
 彼を補助する時友が段々眠そうな目になってきたのを見るともうほとんど処置は終わったようだ。
 かわりに救急の長たる七松は、あるカーテンで仕切られたパーティションの前で所在無げにいったりきたりしている。
 中では例の堂瀬と、報を聞いて駆けつけてきた母親が感動の対面をしているはずであり、伊作が汚い字で書かれたカルテを手に状態を説明する声がとぎれとぎれに聞こえてくる。処置をした七松が本来のその役目を放棄してここにいるのはいわば衛兵というか、待ち伏せであった。
 とはいえ母親もその姿を見せた時は、その異様な格好に救急が凍りついたものだ。全身真っ白な服装に、手にはビニール袋をかぶせ目にはサングラス。真っ白なニット帽の下に髪の毛があるのかどうかもわからない。

 全く動じなかったのは、見慣れているであろう堂瀬となぜか善法寺だけだった。


 いさっくんは人の見た目というものをどう考えているんだろうか、下手したら彼の目には誰もかれも、新鮮な内臓をつめたコーちゃんのように見えているのかもしれないな、だとしたら骨格だけで人を判断するいさっくんはやっぱりすごい、などと七松がぼんやり考えていたとき、甲高い男の怒り声と、宥めるような低い声に続いて救急の院内側の扉を潜った者たちがいた。ひとりは夢前三治郎であり、もうひとりはでっぷり肥った中年の男であった。

 母親と同じく白づくめの格好に加え、腰のまわりに注連縄のようなものを巻いている。

 すかさず七松が男の行く手をふさぐ。男の腹周りの脂肪だけでもうひとり作れそうな細身の夢前が、さりげなく後ろ手にドアを閉めた。

 奥でカルテを整理していた皆本が飛んできて、夢前のとなりに並んだ。皆本の心配げな視線に対し、いつも通りの穏やかな微笑を返している。

「おい。そこをどけっ」

 
 男が鼻息も荒く怒るが、何せ変声期をどうしたといいたくなるような高い声なので迫力が出ない。頭一つ分高い七松が腕を組んで一歩近寄ると、ひ、となさけない声が喉の奥から洩れた。

「ここは私の救急だ。要件をいってもらおうか」


 七松の声は良く響く。その白衣の向こうで平が必死に何もないかのように装い、時友がぽかんとこちらを見つめているのが見えた。その声を間近で耳に流し込まれた男は身なりに似合わぬ素早さで振りかえり夢前を指す。

「こ、この若造がわたしの術をインチキだと・・・・! わたしの信者に頼まれたと言うから、この場で決着を付けようと参上したまでよ」

「ふうん、まんまと夢前の挑発にひっかかってくれたわけだ」

 七松は顎をくい、と上げる。夢前は静かに笑って答えない。

「信者は、堂瀬伊予はどこだっ」

 男が言うと同時に、カーテンが開いて母親が顔を出した。男をみるなり、糸のような叫びをあげてその場に平伏する。

「軽戸さまっ! お許しください、病院は魔の血脈というお言葉に背いてこのような魔窟へっ・・・」

 むせびなく彼女は、あとはもう憑かれたように息子が、息子がを涙ながらに繰り返す。しばらく一同があっけにとられている中、カーテンをからりと開けた善法寺が朗、と宣言した。


「それじゃあ、教祖さんとやら。近代医療と魔術の親善試合を始めましょうか」



 救急病棟近くの会議室に、善法寺と七松、肥った男、そして堂瀬伊予とストレッチャーに横たわったその息子、ストレッチャーを押す皆本と夢前がそろった。
 ドアの近くに七松が陣取るのを待って善法寺が口を開いた。

「患者はこの堂瀬伊予さん。貴方の仰る治癒の力を拝見させてもらいます。息子さんは中立ですから見届け人です。もし伊予さんが治ったと仰るなら、あなたには金銭を要求する権利が生じます。伊予さんのご気分に変化がなければ、こちらで引き継ぎますけどいいですか」

 淡々と腕まくりをする彼はまるで消化酵素の説明をするようで、いいですかといいながら答えを期待していないのは明らかだった。

「…わたしの術は見せものじゃあないんだ」

「それなら、僕があなたの修行所でみつけたいろんなからくりは、いんちきの証拠だってことでいいですよね」

 すかさず夢前が釘をさす。教祖を名乗る男の顔にさっと赤みが差し、根が単純らしい男はこうして勝負のテーブルについたのだった。
 少し緊張した面持ちでパイプいすに腰掛けた堂瀬伊予に、男は手持ちの水筒からお茶のようなものを注いで渡す。

「それは?」

「祈祷の前にリラックスさせるためだ」

 ふうん、と善法寺は言ってそのお茶を取りあげた。男の抗議も聞かず、ポケットから小びんとスポイトを出し少量をびんに取り分ける。
 三治郎、長次に持って行って、と言いながらびんを手渡す。夢前は心得ましたと言って部屋を出て行った。

「サンプルを成分分析に回しました。ここは病院ですから、万が一にも向精神薬や鎮痛剤を処方箋なしで使わせるわけにはいかない。

 結果はすぐに出ますから待っててください」
 一瞬男の顔が強張る。その期を見逃さず顔を寄せて囁いた。

「…それよりもっといいものだったりして?」

 男は無言でさっと立ち上がり、入り口に向かう。

「おやあ、顔色悪いね兄さん。体調の悪い人間を病院から出すわけにはいかないな!」

 その進路を七松に塞がれ焦って背を向けた男は、迫る善法寺に正対する形で後ろ向きに七松に腕を抑えられた。善法寺が追い討ちをかける。

「あなた医師免許持ってるの?薬剤師は?
 無許可で医薬品を販売する、もしくは厚生労働省に認可を得ず健康効能をうたって製品を販売すれば薬事法違反。
 医師免許がないのに医療行為をすれば医師法違反、人体に鍼やメスで傷をつければ傷害罪。
 そもそも事実に基づかない喧伝によって人を誤認させたのだから詐欺罪にも問えるね。
 信者の不安を徒に煽って金を得たなら脅迫罪だ。
 きわめつけは非合法薬物の所持と使用?
 すごいねえ、アメリカだったら全部合わせて20年くらいにはなるかな」

 男は色を失い、もがいて逃れようとするが豪腕はぴくりともしない。
 と、その顔が歪み、瞼が痙攣する。ぱくぱくと口を動かし自由になる腕の先を鳥のように振った。急変に気付いて慌てて駆け寄ろうとする皆本を制し、善法寺はあくまでゆったりと男を見やる。

「そんなに太ってちゃ、心臓に負担かかるよね。発作でも起きたかな?」

「た、たすけて・・・」

「もちろん、僕は医者だから助けたくてたまらないよ。…けどあんたは自分で治せるだろう?」

 顔を真っ赤にさせた男が必死に首を振る。

「医学に助けを求めるっていうの?」

「しん・・ぞ・・心臓病なんだ・・死ぬ・・ッ」

 もう一度たすけて、と呻いて男は意識を失った。手を出しかねた皆本が救いを求めるように七松の顔を伺う。
 その視線に頷いた七松はこともなげに男を担ぎあげ、自らの城へ戻って行った。

「いさっくん、あとはよろしく頼むよ」

 善法寺が、一部始終をぽかんと見ていた堂瀬親子に向きなおる。

「さてと、堂瀬伊予さん。あの教祖さんが戻ってくるまで待ちますか?」

 しばらく逡巡していた彼女だが、やがて力なく俯いた。善法寺に付き添われ診察室へ向かう白い小さな背中を、その息子の目はいつまでも追っていた。



第6章へmainへ