さて時間は少し戻って、夕日差し込む立花の部屋。
救急での騒ぎを伝え聞いた潮江は、渋い顔のままにその戸口に立っていた。彼を呼びつけた張本人である立花がのんびりとコーヒーなぞをすすっていることも、彼の気分を逆なでした。

「おい、仙蔵」

「まあ焦るな。お前もどうだ。伝七の持ってきた高級豆だぞ」

「要らん。お前の淹れ方は舌に合わない」

贅沢な奴め、と立花は笑ってソファに座り、マグカップをローテーブルに置いた。座れと身振りだけで示して、潮江がその前の一人掛けに座ったのを確認して口を開く。

「昨日運ばれてきた心臓発作の患者がいるだろう」

「ああ」

「拡張型心筋症」

「…どこから聞きつけた」

「兵太夫が皆本から聞きこんで教えてくれたのさ」

 准看護師たちのおしゃべりは今に始まったことではない。特には組と呼ばれる連中はそうだ。潮江が黙っていると、立花が続けた。

「バチスタが必要だそうだな」

「ああ。手当てが早くて今回は回復したが、根本的解決には手術しかない」

「うちがやるのか」

「転院を勧めてもいいが」

 一瞬立花は顔を上げ、斜陽に目を細める。


「・・・日本にな、利吉さんが来ているんだ」


 潮江は彼の言わんとすることが分かって、ただ頷く。

「彼は世間じゃアメリカにいることになっているが、私は動向を山田先生から教えて頂いた。いや、それはどうでもいい」

 立花は脱線を恥じるかのように手を軽く振った。

「例の件で、まあまだ真偽は定かじゃないが、とにかくうちは対外的に存在感を示して置く必要がある。バチスタの成功は格好のアピールになるだろう。特に患者はテレビにも出て顔を売ってるしな。
・・・・だがやるからには絶対に失敗は許されん」

まっすぐ自分を見つめる立花の眼の中を夕焼け雲が通り過ぎる。ともすれば揺れそうになる光を必死で抑えているのか、まぶたが微かに痙攣しているのがわかる。そんなことを妙に冷静に観察する己を自覚した。これから彼が言うであろうことなど、潮江には手に取るように分かる。


 立花の唇が開く。

「執刀は利吉さんに頼む」

「・・・ああ」

「な、文次郎、お前の腕を信頼しないわけじゃあない。
 だが、こういう局面だ、より可能性の高い選択肢があるならそちらを選ばねばならんのだ」

 そんなことはとっくに了承している、と言いそうになった。だがそうすれば立花の決意と気遣いを無にしてしまう気がして潮江は黙っている。
 よく誤解されるのだが、彼はそこまで矜持にこだわらない。たしかに自分の職掌を他人に奪われることには敏感だが、客観的にそれが最善であればどんな状況も躊躇わず受け入れられるのだ。

結局のところ、彼もまた現実主義者なのだった。

「わかった」

「そうか」

立花は片頬だけで笑って立ちあがった。コーヒーを飲みほし、もう用は無いとばかりに窓際へ寄って背をむける。潮江が退出しようとしたとき、疲れたような声が追いかけてきた。

「彼に連絡を取るよ。もし決まったら、お前には助手を務めてもらうと思う」

 わかった、ともう一度言って潮江はドアを閉めた。



 さてその翌日のこと。
 まだ朝露の匂い抜けやらぬ、閑散とした総合玄関の前に一台のタクシーが止まった。音もなくドアが開くと同時に、ポーチの向こう、自動ドアの開いた先に3つの人影が見える。薄暗いロビーを抜けてきたのは、立花、潮江、黒門であった。三人の中で飛びぬけて小柄な黒門は、何やら膨らんだ革のボストンバックを両手で持っている。

「御苦労、伝七。朝の勤務まであと少しあるから、兵太夫が来るまで休んでおくといい」

「ありがとうございます。お気をつけていってらっしゃいませ」

 ぴょこん、とボストンが地面に付きそうな勢いでお辞儀をする。その様子を慈愛そのものといった眼で見てから、立花は不意に横の仏頂面に視線を移した。

「朝からうっとおしいことこの上ないな。もっと爽やかな顔はできんのか」

「出来るか。なんで俺が利吉さんを迎えに行くのに、お前がついてくるんだ」

「失敬な。たまたま同じ方面に出張だからこそ、道中を楽しくしてやろうと思ってわざわざこんな早朝に起きだしてきたのではないか」

「・・・・そーかよ」

 もともと切れ長の目をまんまるくして言う立花に、反論する気も失せた潮江はぷいと横を向く。

「さて文次郎。いつまで私のかわいい黒門に重い荷物を持たせておくつもりだ」

「はあ? いやそれお前のだろ、っておい!」

 立花の肯首にこっくりと頷き返した黒門が、迷いのない歩調で寄ってきて彼にボストンを押し付けたので、思わず受け取ってしまった。
 そのまま黒門はもういちど(立花に)深く一礼して、暗いロビーにもどっていく。

「仙蔵!」

「私は脳外科だぞ。手先の細かい感覚の狂いだけでも命取りだ。そんな重いものが持てるか」

「いやお前、今日は手術の予定無いだろうが」

「ごちゃごちゃ聞き苦しい。そこのトランクに入れるだけだ。あと空港の手荷物預かりまで」

「降りてからは結構あるじゃねぇか!じゃなくて俺は空港まで行くのか!横浜駅が先だろうが」

などと吠える潮江を置いて、さっさと立花はシートに身体を滑り込ませる。
 一部からは鬼などと恐れられる潮江文次郎助教授にカバン持ちをさせるなど、院内にはこの男しかありえまい。
 立花を甘やかしている、という声が一部にあるのを知っていながら、文句を言いつつその要求を飲んでしまう自分がいつも不思議で仕方が無い。しかし立花の側にも、こうした理不尽なわがままを正当化しうるほどの、優雅な傲慢さがあるのも事実だった。



 結局本来の目的地である横浜駅をすっとばし空港へ向かうことになる潮江らを乗せたタクシーは、軽快にロータリーを出て行った。
 目をしばらく同じ場に留めてみよう。二人とボストンを乗せたタクシーが過ぎ去ったのち、総合玄関をスーツ姿でぴょこぴょこと歩いて出てきた者がいる。
 臨床工学技士として当直をしていた夢前三治郎である。
 彼は一度大きく伸びをすると、彼と眼が合うほどの高さで咲いていたマツヨイグサに口元を綻ばせ、門を出て左へ歩いて行った。



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