第5章
「それって・・」
尾浜が言いかけようとしたのを遮って、久々知が続ける。
「郊外にでっかい個人病院があるだろ、園田クリニックっていう。そこが産婦人科を新設したいんだそうだ。前に切迫早産で救急搬送されてきた患者を診たんだが、それが院長の園田氏の娘でね、それからの付き合いだ。もちろんうちの病院の現状も知ってて、移るのは山本先生が戻られてからでいいと言われた」
「・・・兵助は、どうしたいの」
「わからない」
といって久々知は、手に持ったビールジョッキを煽った。口に泡が付いているのにも構わず、机の上の箸袋(律義なのか暇だったのか、白鳥の形に折ってあった)を見つめてぽつりぽつりと話す。
「うちは確かに多忙だけど、産科なんてみんなこんなものだろ、それは変わらないと思うんだ。ただ給与は確かに上がる。そりゃあこんな大学病院と、高額な入院費と引き換えにハイレベルの設備と病院食をうたってるような園田じゃ雲泥の差だよ。それに、あちらさんは俺の腕をかってくれてる」
尾浜はただうん、うん、それで、と合いの手をいれるだけで、久々知が喋るのに任せている。
普段自分のことになると口数の多くない彼がここまで喋るには、アルコールの力が確かに必要だっただろう。
「けど、個人病院に行ったら、今までみたいな研究はできなくなる。それに園田は救急を受け付けない。後味の思いをするだろうことも、俺がやがてそれに慣れちまうだろうことも想像できるんだ。こっちには愛着もあるし、みんながどう思うか・・」
ついに久々知が黙り込む。尾浜はいいあぐね、手元の箸をくるくると回してみる。ようやく口を開こうとしたとき、お待たせしましたぁと場違いに明るい声がして、店員が中ジョッキとビールを運んできた。礼を言ってそれらを受け取り、店員の姿が完全に見えなくなったとき、
「兵助」
「勘ちゃん」
タイミングの妙に、顔を見合わせて思わず笑いあう。
「なに、兵助」
「いや、もういいんだ。続けて」
じゃあ、といって尾浜もビールを一口飲む。
「おれは兵助の選択に口を挟むわけにはゆかないよ。だって所詮他人なんだもの。だけど同じように、園田の院長だって、三郎や雷蔵たちだって他人なんだ。彼らがどう思うかを気にしすぎたら駄目だ。平助の人生を生きるのは平助なんだから、自分がどう思うかを基準に考えなきゃ」
「・・・。」
尾浜が話す間中また下を向いていた久々知だが、ふと顔をあげた口元はもう引き結ばれてはいなかった。
「そうかもしれない。相変わらず勘ちゃんは明快だ。相談して、よかった」
「どういたしまして。兵助、一人でそんなに思いつめるくらいならおれに相談してよ。確かに他人だけどさ、一緒に考えることはできるんだから。
・・・・さて、もう遅いけど、乾杯しようよ」
「何に?」
「おれたちふたりと医療の未来に」
噴き出しそうな久々知と、尾浜のジョッキが軽やかな音をたてた。
その頃、営業時間を過ぎた薄暗い食堂には、七松と善法寺の姿があった。
「いさっくん、あんな約束してどうするつもり」
「ううん・・・とりあえず母親の件は、症状きいたら見当がついたから何とか診察して、治せるとして。問題はその宗教団体からどうやって抜けさせるか、なんだよね」
「そこまでやらなくてもいいだろー? 金の場所を聞き出せばそれで解決だ」
「けど・・」
そこに、お待たせしました、と言って現れたのは救急外来看護師、皆本金吾であった。後ろに小柄な人影を伴っている。
それが臨床工学技士の夢前三治郎であることを、二人の医師は同時に認めた。
「金吾、切り札になりそうって、夢前なのか?」
七松は同級のほか自分の科の看護師や助手に限って、たまに名字ではなく名前で呼ぶことがある。一刻をあらそい怒号がとびかう救急の現場ではそちらのほうが呼びやすいからというのもあるし、仕事を離れた場で気を緩めているとき口をついて出ることもある。
「はい。彼の家は山伏に連なってて、伝統宗教には強いんです。だったら新興宗教も論破できるんじゃないかと思って。それに、見えるっていうし」
「ちょっと金吾、余計なことは言わなくていいの」
夢前はすこし慌てたような素振りを見せたが、すぐに彼のいつもの笑顔に切り替わって、七松と善法寺に微笑みかけた。
「金吾がああ言ってますけど、あまり期待しないでくださいね。ただ、ああいう団体の理屈ややり口は多少知ってますから」
善法寺と七松は顔を見合わせた。
人には知らない一面があるものだ。いつも人好きのする微笑をうかべているこの青年も例外ではないらしい。
そして夜は更けていく。
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