看護師用の休憩室のベンチに下坂部を座らせ、自らはその前にしゃがみこむ。背の低い下坂部には長すぎる白衣の裾が、床に付く寸前で細かく震えている。床に置かれた花瓶をただ見つめる彼の手に自分の手をそっと重ねてやるが、かたくなに目を上げることを拒否する様子にこれは大変だとどこか遠いところで思った。なるべく普段通りの声を作って呼び掛ける。
「あのな下坂部・・・・下坂部、いや、平太!!」
下坂部がぎくっと肩を震わせて、束の間視線が食満の瞳とかちあった。
「俺はお前を信用してる。お前が患者のためにならないことをするはずがない。だから言ってみろ、大丈夫だから。な」
「・・・・・・。」
下坂部の伏せられた瞳が、微かに左右に揺れる。食満はひとつ頭を掻いて、先程から好奇心と心配が綯い交ぜの視線を向けてきていた看護師たちを見やる。
「・・・山村、福富、お前らは勤務に戻れ。それと富松、ちょっとコーヒーでも飲んできたらどうだ」
大人しく立ちあがった3人の中で福富は少し逡巡する素振りを見せたが、下坂部の肩をちょっと叩いて、やはり同じように部屋を出て行った。
再び縮こまった下坂部と目線を合わせてやると、その小さな口がわずかに開いた。
「・・・誰にも言わないって約束して下さいますか」
「少なくとも、お前が望まないような形では誰かに話したりしないと約束する」
「・・・31号室の、かずき君」
「ああ」
「僕、見てしまったんです。彼が、遊びに行った部屋で石鹸水を花瓶に入れるのを」
しん、と静まりかえった病棟で、下坂部の消え入りそうな声は床に、壁に、外のしじまに溶けだしていく。そうしてこだまのように反響し、食満を四方八方から取り囲む。
「あとでかずき君にこっそり聞きました。そしたら見る見るうちに泣きだして・・・。
かずき君、お父さんと二人暮らしでしょう?・・・・なのにお父さんは長期の出張で、入院が長いかずき君にはお見舞いに来てくれる友達もいなくて。もうずっと、31号室の花瓶は空っぽなんです。泣きじゃくりながら話してくれたので、もうしないで、誰にも言わないからと約束しました。だけど」
「それで終わらなかった・・」
たれ気味の大きな瞳に涙をためて、下坂部は頷く。
「だから、平太はかずき君が遊びに行った病室を回って、水を取り替えてたのか」
「でも、全部把握することはできませんでした。だからあんな事故も起こって・・・・。
お願いです、食満先生。あの子を、叱らないでください。ちゃんと止められなかった僕が悪いんです。かずき君、寂しくて仕方ないんです」
俯いた小さな准看護師の頭にぽん、と手を置く。夜勤の無い日も毎晩彼はこうして病棟に来ていたのだ。考えてみれば少し痩せたような気もする。繊細な彼には、この秘密は重荷だったろうに。
「平太、お前ひとりに辛い思いをさせてすまなかったな。
だが、俺をもう少し信用してもらいたかったよ。俺だってそんなに杓子定規じゃないさ。大丈夫、平太、大丈夫だ・・」
ぱたん、とステンレスの扉は軽い音をたてて閉まった。
富松は心の中で食満に頭を下げる。下坂部の問題は本来なら師長たる自分があたらなければならないのだが、怯えていたり取り乱している人間を宥めて話を聞くなどということに、どうも自分は向いていない。それは彼が常日頃小児科として忸怩たる思いを抱くところであった。それに対して食満は生粋の小児科医とでもいうべきだろうか、この手の事態はお手のものなのだ。
俯き加減で本館に通ずる渡り廊下を歩き始めたとき、よく見知った顔が二つ、向こうから足音を立ててやってきた。
救急隊員で富松の同級生でもある次屋三之助と神崎左門だ。
富松を認めて次屋が片手をあげた。
「よぅ、作」
「おう、って何やってんだお前らこんなところで」
「搬入がひと段落して、一度帰れることになったんで出口を探しているのだ」
胸を張る神崎に頭を抱えたくなった。どうして一階西隅の救急外来から東棟に通じる二階の渡り廊下に辿り着くのか理解不能だが、この二人の迷い癖はいつものことである。
いつものように自分が出口まで案内してやるしかあるまい。ついて来いと身振りで示すと、二人は大人しく横に並ぶ。
「また急患か?」
「またもなにも、まるでお祭りだよ。先生方がてんやわんやしてる」
「えー誤嚥のお年寄りに盲腸に、あ、あと変な名前の評論家が心臓発作で来てたな」
「そうそう、なんやそれこれらしい、とかいう」
「違ぇよ三之助、なんだそれふろしきだろ」
「ああ、なんのそのこれしきか」
「作何言ってんの」
「だから、南野園是式だろっ!」
「あ、大体そんな感じだった」
大体じゃねェよこれが正解だよ、と思ったが突っ込むのもそろそろ疲れてきた富松は、無言で天を仰ぐ。
そんな彼の心境など一切無視して、救急二人はわざとらしく声をひそめて告げた。
「それとあと一人、事件の匂いがするんだ」
「どう見ても刺し傷なんだよ」
「匂うだろ」
「何も言わないんだぜ」
「脇腹でさ」
ついに富松の青筋が震えた。
「・・・・あのなお前ら、少しは筋道立てて喋れーーーーーーーーっ!」

スズランとスイセンは有毒・・・。
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