病理研究室から持ち帰った封筒の中身は、食満の目つきを険しくさせるには充分だった。

「トリクロサン、エタノール、ミスチリ酸・・・石鹸か?」

「念の為確認しましたら、うちの病室に備え付けのハンドソープと同じ成分でした」

 肯定する富松の表情も堅い。斜陽が差し込む研修室に、重苦しい空気が満ちる。扉一枚隔てただけだというのに、子供たちの笑い声や泣き声がやけに遠い。
 その扉が不意にばんっ、と開いて福富と山村が顔を覗かせた。同時に甲高い話し声や騒々しい足音が暖められた空気と共に流れ込んでくる。

「先生ー、師長ー、こんなところに!」

「だめですよぅさぼっちゃ」

「あ、喜三太なんてこと言うのっ」

 やいのやいのと騒ぐ二人に、富松の口元は引き攣り食満のそれは微かに緩む。

「悪かったな。どうした」

「お茶が入ったのでお誘いに。鉢谷先生にもらったお菓子もあるんですよ〜」

 麻酔科医の鉢谷は研究室に菓子類を常備している、というのはもはや常識である。なぜか彼は小児科の福富看護師をことのほか気に入っているらしく、餌付けする如くちょくちょく珍しい菓子を与えているのだ。

「おう、そうか。それじゃ休憩とすっかな。富松!」

「はい」

「お疲れ様。よく気の付くお前がいてくれて本当に助かるよ」

「いえ、そんな・・・っ。あ、お前たち、下坂部は?」

「今日は早番なので、先に上がりましたー」

「そうか。ところでしんべエ、喜三太、最近C棟で変わったことはないか」

 食満がさりげなく尋ねるが、しかし妙なところで鋭いのがこの二人である。手に持った紙を覗きこまれ、質問攻めにあって結局彼ら二人に花瓶の水のことを話す羽目になってしまった。


「そういえばC棟29号室のかりんちゃんが、バラがすぐ枯れてしまったって泣いてましたよ」

「ちょっと前はC棟で毎朝お花を捨ててた気がします。幽霊が出始めたのもその頃ですー」

 食満と富松は顔を見合わせる。子供のうわさと気にもしないでいたが、その噂の下に実体のある人間がいるのだとしたら放ってはおけない。ましてこの予感がもし事実だとしたら。
 食満はひとつ頭を振って、今夜C棟を見張ってみよう、と独りごちた。




「で、なんでお前らまでいるんだ」

 深夜三時。二畳ほどの給湯室に潜む食満には、富松・山村・福富がぴったりと張り付いている。山村・福富は今夜の夜勤だが、富松は非番のはずではなかったか。

「だって先生おひとりにこんなことさせるわけには」
 応える富松の声が震えている。三人に縋りつかれて白衣が重い。怖いんだったら来るなよと食満は思うのだが、好奇心には勝てないのだろう。それを重々承知している彼はため息をつくに留めた。
 夜勤で見慣れたはずの暗い廊下だが、今夜はことさら空気がひんやりしている気がする。遥か向こうの廊下の突き当たりで明滅する、非常口を示す陰気な緑のランプ。電気が切れかけているのを忘れていたせいだ。よく磨かれた床に映った光は、波間の月のようにゆらゆらと揺れる。
 時折眠れない烏が遠くで鳴くほかは、まったく静かだった。
 今夜は何も現れないのではないか、と食満がうっすら思い始めた時だ。

 ぱた・・・ぱた・・・・・

 思わず口を抑えた。気のせいかと思うほどかすかだったその音は、ゆっくりと、しかし確実に大きくなっていく。非常口と反対の廊下に、ゆらりと白い、小さなものが現れた。膝下の高さに並ぶ常夜灯が、その白さを闇に浮かび出す。

 ぱた・・・ぱた・・ぱた・・ぱたん。

 ぎい。

 扉のきしむ音がして、白いそれはふっとかき消えた。傍らの高い体温がさらに身を寄せてくる。やがて息を殺して待っていると、再びそれは廊下に現れた。左右に傾ぎながら、ゆっくりと彼らのほうへ近づいてくる。

 ぱた・・・ぱた・・・ぱた・・・ぱた、

 それが不意に足をとめた瞬間、食満の足元から小さな影が飛び出した。つられて食満も立ち上がると、バランスを崩した富松の小さな声が耳に届いた。富松を引き摺ったまま、先に飛び出した福富と山村のところまで駆けつけると、二人は小さな影に飛びかかっていた。が、その瞬間誰からともなくあ、という声が上がる。

 常夜灯に照らされているのは、幅広の垂れ目に、下がり気味の眉、青白い顔の下坂部平太准看護師だった。

 トルコギキョウが生けられた小さな花瓶を胸に抱えて、すっかり脅えた様子で座りこんでいる。食満と目が合うと、急いでその目を逸らした。
 富松も、山村も、福富も、麻痺したように動かない。食満にはやっとのことで絞り出した自分の声が、まるで別人のものであるように聞こえた。

「とりあえず・・・座るか」




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