第3章
34号室。オレンジの花柄のカーテンが揺れる明るい病室は4人部屋となっており、その窓際の一角が騒がしい。男の子が腹をおさえてうずくまる横で、うろたえた母親が何度もその名を呼んでいた。
駆けつけた富松は彼女をなだめながら、ふと冷蔵庫の上のガラス瓶に目を留める。確か昨日まではそこに可愛らしい花が咲いていたはずだが、今や2センチほどの水が残るだけだ。山村と福富に指示を出す頭の片隅に、その透明な光はいつまでも焼きついていた。
食満に先程のナースコールの原因と対処を報告する。
「花瓶の水を誤飲した?」
「ええ。すぐ母親が気づいてナースコールを押しました。吐かせて今は落ち着いていますが、念のため残っていた水を毒物検査に回しています」
「そうか、ありがとう。スズランやスイセンは入っていなかったよな?」
「ええと・・・」
「ないですよぅ、スイートピーとかチューリップだけでしたもん」
横から山村看護師が口を出した。聞けば今朝早く花が枯れているのに気付いたため、母親の了解をとって花を捨てたのだという。
「あのな、花を取ったら水も捨てとけ、って何度も言ってるだろう! 小児科はこういう事が怖いんだ。全く大事には至らなかったからいいものの…」
「まあ落ち着け富松。喜三太もこれから肝に銘じとけよ?」
食満は言い聞かせるとき、わざと下の名前を呼ぶ。それだけで距離を縮められるのだと教えられたのは、富松が小児科に配属になってすぐの頃だった。
「それにしても昨日はあんなに元気だったのに、一晩で枯れてしまうなんて・・・」
知らず呟いた先に、採血の準備をしている下坂部准看護師と目が合った。気の弱い彼はびくっと肩を震わせ、あわてて目をそらした。
怯えさせるつもりもなかったのに、つい目つきが悪いと称される流し眼になっていたのだろか。
心臓カテーテル手術とポリープ除去手術を終えた潮江は、まっすぐ中在家長次の部屋へ向かった。
手術室と同じく一階に配置された彼の部屋は資料庫の隣にある。医療機器がずらりとならび、ホルマリン漬けの標本やら資料箱やら各科から回されたサンプルが整然と置かれたステンレスの棚で構成されたその部屋は、白色蛍光灯の光の中でともすれば無機的な印象を与えるのだが、光学機械の上にどさりと積まれた資料や標本の間の小さなサボテン、ファーストフードチェーンのキャラクターが描かれたマグカップが幾分人間臭さを加味して、全体としてこの部屋を妙に居心地の良い空間にしていた。
その6畳の端、年季の入った顕微鏡に覆い被さっているのがこの部屋の主である。
「邪魔するぞ、長次」
白衣の背中は何の反応も返さない。潮江はそれを意に介する風もなく、立てかけてあるパイプ椅子を広げ座りこんで待つ。
やがて顕微鏡から目を外した中在家は、プレパラートに何やらメモを書きつけながらひとつ唸った。それを合図ととって潮江は話し出した。
「ひとつ聞きたいことがあるんだ。仙蔵からお前が大学に呼ばれたと聞いた。何の用だったんだ」
もくもくと動く背中から、注意していなければ聞き取れないほどの低い声が流れてくる。
「・・・・・例の治験」
「抗ガン剤のか。たしかゴノイとササコの比較だったな」
無言は、肯定。メモが付されたプレパラートが分類され、次々と立花と書かれた箱に納められてゆく。
「結果は同程度だったんだよな。それでゴノイのプレフェミンのほうが安価で安全性が高いとか」
「その結果を、どうにかできないかと言われた」
「・・・・本当か? 誰に?」
「稗田だ。産学協調プロジェクトの責任者だとか」
訥々と聞こえる中在家の言葉に比例して、潮江の眉間の間隔が狭まっていく。
「ササコ薬品と稗田に繋がりなんぞあったかな・・・」
誰ともなく呟いた言葉は空中に離散し、微かなガラスの擦れる音と沈黙だけが部屋を漂った。潮江が天を仰いで刻一刻と眉間の皺を深めるあいだ、二人とも無言である。その時、しじまを破ってノックの音がした。
開いた先に見えた小児科師長の丸い顔が、潮江を見て少しひきつる。素直な性質は美徳ではあるが、毎度自分を見てその反応はさすがに傷つくというものだ。
「あの、中在家先生・・せんにお願いしてあった水の結果ですけど」
中在家はちょっと頷くと立ちあがって後ろの棚から封筒と試験管をとり、ドア越しに富松に手渡す。
それを胸に抱えて、ぴょこんと一礼すると慌てたように富松は去って行った。
「・・・それで、お前はどう答えたんだ」
「どうもしない。結果は結果だ」
淡々と紡がれる言葉に苛立ちはない。口数の寡ない友人だが、決して潮江や他の同僚と喋ることが嫌いなわけでは無いのだ。それを知っている潮江はパイプいすの上でひとつ伸びをする。
「・・・・煙草いいか」
「窓開けて吸え」
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