「まあ聞けよ」
わざと音を立てて近づいたにも関わらず図々しく目をつぶり続ける立花を起こし、睨まれつつも潮江はさっきの話を聞かせた。ところが、立花はつまらなさそうに鼻を鳴らすと、
「情報が遅いな、文次郎」
とのたまう。
「その件なら、綾部に三日ほど前に聞いたぞ」
そうだった、彼には大学との繋がりという伏兵があるのだった。
「まあ、その時はそういった動きが水面下である、というだけだったが。そうか、探りを入れてきたか」
「知ってるんならなんでお前、そんなゆったり構えてる?もしその計画が実行されたら、実質うちの病院は潰されるんだぞ」
「いきり立つなよ。三日前の話は本当にただ掴みどころの無いものだったのさ。変に騒いだら藪蛇だろう」
ペンを片手でいじりながら、彼が潮江の両目を見据えてくる。
「だが田村の話が本当なら、稗田のバックに誰かいる、と言うのが気になるな」
「うちみたいな弱小の大学病院を潰して得をするのは、誰だろうな」
「分からん。…だがひとつ、お前が来てから気づいたことがある」
「なんだ」
思わず身を乗り出す、そこへペンの尻の先がとんとんと眉間に当たった。
びっくりするほど近くに立花の、顎が細い色白の顔がある。
「最近皺増えたんじゃないか」
「は」
「どうも、相変わらず隈はむっさいし。本当に同学年か?」
「余計なお世話だ、大体皺が増えたのは、お前のとこが年末調整でワガママ言ったせいだろうが」
「歳を聞かれたら、十歳くらい上にサバ読んでくれよ。我々の世代に対する世間の心証が悪くなる」
「なっ、大体、今そういう話をしてるんじゃ」
「ほらほら、怒るとまた皺ができる」
潮江の心労の6割くらいに責任のあるこの男は、しゃあしゃあと言い放ってもう一度ごろりとソファに横になった。振り飛ばされたスリッパが、左右ばらばらに床に落ちる。
「おい」
「休憩時間だ。休憩して何が悪い。…まあ私の方も綾部に探らせてる。気になるのなら、長次にも聞いてみるといい。最近大学に呼ばれていったとか何とか言ってたぞ」
それきり、仙蔵は頑として目を開けなかった。
「オバケだぁ?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。いけない、と思い直してぐっと目元に力を入れると、たまたまその視線の先にいた富松師長が顔をひきつらせた。
今話しているのは福富と山村なのだが、なんで関係ない富松が反応したのだろう。
「そうなんですよぅ、昨日の夜、3C棟の廊下を、ぺたぺたぺたって歩く足音がしたんですってー」
「で、見に行ったら、白い人影がスゥーーッと」
「でも、廊下の途中でふっと消えてしまったんだって」
二人の准看護師が交互に、見事な連係プレーで説明した。どうやら、朝の見回りの時に子どもたちから聞いた話らしい。
「そんなの夜勤の看護師を見間違えたんだろ」
注射の準備を手際よく進めながら、富松が口を出す。
「でもぉ、その時間には誰も3C棟の当番はしてないんです」
「じゃ、トイレに起きた子か何かだ。さ、喋ってねぇで働け働け。85号室のゆうき君、今日の午後採血だぞ!」
と、彼は発破をかける。が、はーい、と返事をした傍から山村がカルテの束を取り落とし、福富がその上にすっころんだ。あーあーあー、と悲鳴じみた唸りを発して、富松がヘルプに入る。春に入ったばかりのこの二人は、いまいち仕事の覚えが遅い、と彼はよく食満にこぼす。が、何故か彼らが居ると、子どもが注射の時も泣かないのだ。飴を上げたりおもちゃで吊る必要が無く、それはそれで重宝している。他に仕事の方はまあ、富松が仕切ってやってくれているのでいいかな、と思う。慢性的に人手不足の我が科だが、これ以上の人員を雇う余力は無い。看護師だけではなく医師の方も、夜勤が続いてローテーションを組むのが大変なのだ。びっしり埋まったスケジュールを思い出して顰め面をしていると、何か違う風に解釈したのか、
「先生、きっとそんな噂すぐに無くなりますよ。気にしないのが一番」
と、完璧にワクチンの準備が整ったトレイを差し出して、小児科の頼みの綱である師長はいうのだった。
そこへ、ピーピーとか細いブザー音。
「ナースコールだ、34号室、行くぞ」
小さくなっていくナースサンダルの足音を聞きながら、そういえば34号室は3C棟にあるんだった、と最近寝不足気味の頭で食満留三郎はぼんやりと思った。
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