証 3




 こうして途切れがちの踏み跡を辿ること半刻。日が高く上がりきった頃、斜面を切り開いた作業場と粗末な小屋が木々の間に見えた。ここまでくると現金なもので、散々疲れただの足が痛いだの言っていた子どもたちは、歓声をあげて小屋に駆け寄っていく。よほど陶芸の好々爺に懐いているらしい。
 案の定、木戸を開けて彼らを迎えた老人からは目を細めて歓迎された。三人は小屋の奥に通され、茶を出され、それどころか驚いたことに、老人は子ども二人に土をこねてくれと懇請するのである。付き添いの戸部が作業場に入ることを許されず外の木陰で待つ間、老人の感心する声がひっきりなしに響いてくる。
 とはいえ待つ身としては暇を持て余し、作業場の周囲をひとまわりしてみることにした。
 粗末な小屋はどうやら、近くの木を適当に切り倒して作ったようだ。小屋の周りには一本の桜の木を除いて高い木はなく、背の高いうどのような野草や、細いひこばえが足の踏み場もないほど雑然と生えている。
 その一角の山吹の茂みに近づいた時、視界の端でちょろりと動くものがあり、武芸者の常として瞬時にそちらに意識が向いた。
 何のことはなく、やせ細った子ダヌキが一匹、茂みの下から顔をのぞかせているだけである。
 人間がいるというのに逃げもせず丸い目でこちらを見上げてくる動物がなんとなく気になって、屈んで茂みの下を見ると太めの枯れ枝のようなものが落ちている。否、よく見ればそれは横向きに倒れたタヌキで、細い前足をだらりと突きだしている。
 その獣は不躾な人間に気付いて、ようよう鼻面をちょっと動かして威嚇らしき声を出した。その腹のあたりには、親や兄弟に負けず劣らずやはり小さく細い子ダヌキがもう一匹、しきりに顔を親の毛皮に押し付けていた。
 最初の子ダヌキが戸部の足元まで出てきて、ふんふんと匂いをかいで体を右足にすりつけた。甘えるような声を出す。

「なんだ、お前たち腹が減っておるのか」

 くぅん、と子ダヌキが鳴く。
 その切なげな声と視線に抗い切れず、残り二つの握り飯のうちひとつを子ダヌキの横に置いてみる。すると子ダヌキはそれを器用にくわえ、母親の口元へ運ぶではないか。
 握り飯を分けあって食べるタヌキの親子を見ているうちに、作業場のほうで喜三太が彼を呼ぶ声がした。


 結局、顔や手足に土をつけたしんべヱと喜三太を従えて、例の茶碗を携えて戸部が庵を出たのは中天を通過した日がだいぶ傾いた時分だった。子ども二人は菓子をもらってご機嫌らしい。ぷくぷくとした笑顔で声も高くはしゃいだ足取りである。
 その機嫌の良さはしかし長くは続かず、例の蛙石の分岐を過ぎた頃しんべヱの足が鈍りだした。時をおかず喜三太も口数が少なく遅れがちになる。戸部が気付いて足を止めたとき、しんべヱの腹の虫が大きく鳴った。
 戸部はなだめすかして二人をもう少しだけ歩かせ、倒木だらけの林を過ぎ見晴らしの良い峠に出たところで、昼食をとることにした。
 よほど腹が減っていたと見えて、野原に適当に腰を下ろすなりしんべヱはもう満面の笑みでいそいそと風呂敷包みを開く。喜三太もその隣で自分の風呂敷を広げ出した。
 戸部自身も大分軽くなってしまった風呂敷を降ろし、まずは水筒で喉を潤した。それから竹の包みを開いて、残りひとつだけになった握り飯に手をかけた時、しんべヱの高い悲鳴が響いた。ぎょっとしてそちらを見ると、しんべヱの伸ばした手の先に、斜面を転がり落ちてゆく白い塊が見えた。
 それほど急な斜面とは思わなかったのに、握り飯はあっという間に草の間を抜け、岩の上で大きく一度跳ねて見えなくなった。たしかあの下は崖で、谷川が流れていたはずだ。
 喜三太が必死でしんべヱを慰めようとするのだが、しんべヱは座りこんで呆然と握り飯の消えた先を見つめている。戸部はため息をついた。

「しんべヱ、見たって戻らないものは戻らんぞ」

「とべせんせぇ」

 すでに泣きべそが混じっている。悲しさが伝染したのか、喜三太の大きな目まですでに潤み始めていた。

「私のをやるから、これでよいだろう。泣くなしんべヱ、喜三太も大丈夫だ」

「でも……」

 一年は組一の食いしん坊と言えど、戸部の体質を知っていると受け取るのに躊躇するらしい。二人は顔を見合わせている。十の子どもに腹の具合を気遣われるのも情けない。もう一度促してやると、しんべヱがおずおずと手を伸ばした。しかしなおも戸惑ったように戸部の顔を見る。

「先生がお腹空いちゃう」

「私は元々三つ頂いていたのだ。大丈夫だから、食べなさい」

「けど先生、残り二つは」

「……さっきお前たちを待っているときに食った」

 先に食べちゃうなんてずるい、という声に明るさが戻って、どうしようもなくほっとした己に驚く。ともかくしんべヱと喜三太は気持ちのいい勢いでふたつの握り飯を咀嚼してゆく。行きの時間からして、あと一刻半ばかりもあれば学園に着けるはずだ。夕飯にはまだずっと早いが、学食のおばちゃんに頼んで何か食べさせてもらえばいい。
 そう計算した戸部は、手元の水筒の水を一気に煽った。


 だがその計算が甘かったことを、彼は身をもって知ることになる。
 子どもの足は戸部の思ったより遅く、また疲れやすいようだった。早朝から歩き続けてきたしんべヱと喜三太は時折休憩させてやらねば歩けなかったし、行きはなんでもないように下ってきた斜面が登るとなると一苦労だったりした。
 ぐずる喜三太をおぶって少し歩き、さらにはそれを羨ましがったしんべヱと交代させ、背中の重みでますますよろけそうになる足を叱咤激励しながら歩いた。
 子どもの体は小さいようでいて、見た目よりずっと重い。成長途中の臓器や骨がしっかり詰まっているのだろう。だがくたりとやわらかくのしかかる体重は、不思議と圧迫感を感じさせなかった。
 どちらかを背負っている間中、戸部は押し入れの中で湿気を吸った、季節外れの綿入れを思い出していた。幼いころ彼はそのぼろぼろになった綿入れに包まるのが好きだった。

 いつしか戸部は二人の手を握り、三人は並んで山道を歩いていた。折からの斜陽に木の影がひょろりと長く伸び、葉の縁がきらきらと輝く。この峠を越えれば忍術学園が見えてくるはずだ。風が吹くたび腹に切なさを感じるのを気のせいだとしてきたが、実はそろそろ限界も近い。
 ぎゅっ、としんべヱが戸部の右手を強く握った。ふくふくとした丸い手は、戸部の骨ばった手の中で大福餅のように白く見える。わずかに足がよろけたのに気付かれたかと顔を見れば、先程までの泣き顔が嘘のように、夕陽を眩しがりもせず眉をきっと寄せて前を見据えていた。戸部を介して意識が伝わったかのように、喜三太もやはり勇ましく着実に坂を上っている。 今や戸部が二人を引っ張っているのか、二人が戸部を引っ張って歩かせているのか分からなかった。

 ふと耳の後ろに気配を感じた。
 素早く足を止め、しんべヱと喜三太の手を離して愛刀の位置を確認したと同時だった。果たして左右の藪が揺れて、十人ほどの身なりのよくない一団が現れた。

「やれやれ、やっと見つけた獲物だが碌なモンは持ってそうにねェなあ」

「お前ら、餓鬼どもは殺すなよ。いくらでも売りようはある」

 泥に汚れた下品な顔をにやつかせる男が彼らの首領だろうか。
 良くも悪くもこういうシチュエーションになれているらしいは組の二人は、戸部の後ろに隠れながらも憤然と懐を探っている。どうせ武器でも捜しているのだろうが、こういう時に限ってなにも持っていないのがお約束だ。
 戸部は二人を片手で制し、小声で言った。

「走れ」

「でも…」

「走れ。学園はまっすぐ先だ。決して振り返らず、止まらず走れ。戻ってきたらお前たちでも斬る」

 この場で、この腹具合で、一年生二人を庇いつつ十人の盗賊を相手にするのは避けたかった。負ける気はしないが、一年生には毛筋ほどの傷も付けたくは無い。
 低い声と気迫に押されたのか、後ろで二人が頷く気配がする。
 一番前の盗賊が一歩前に踏み出したその瞬間、

「走れ!!!!!」

 戸部の号令で一目散に、というよりは若干もたつきながら、しんべヱと喜三太は走り出した。
 慌てて距離を詰めようとする盗賊を刀の一閃で峰打ちにする。

「ここから先には行かせぬ。あの二人を追いたくば、私を仕留めてからにしろ」

 言葉もなく鉈を振りかざして迫る盗賊をひらりとかわし、返す刀で背を打つ。かと思えば下からつきあげるように鳩尾を狙う。右手の刀が受け止められれば、左手の鞘すら使う。
 戸部の剣術は流派に縛られない。それは彼自身が諸国を流れ歩いて修行するなかで、良いと思えば採り入れ真似して身に付けた「戦法」であり、大刀筋は二度と同じ軌跡を辿ることはない。翻弄された盗賊は次々と地に伏せる派目になった。
>  戸部が血の臭いをつけることをためらったために峰打ちを貫いたのは、盗賊たちにとっての幸運だったろう。まだ動ける者が気絶したものを引き摺り、ほうほうの体で退却する盗賊たちに言い放つ。

「ふたたびこの近辺で仕事をするなら、次は首が身体が離れるぞ。疾く去ね」

 だが戸部にとっても、それが限界だった。
 盗賊たちの姿が見えなくなった瞬間、ふらりと身体が傾いで傍の木に思わずもたれかかった。もう何度となく経験していたこの感覚。

(しまった)

 先程の盗賊たちがもし万が一戻ってきたらまずいことになる。それは分かっているのだが、全身から力が抜けて目眩がする。一息ごとに体幹から気力が抜けて行く。ずる、ずる、と幹を伝ってその場に座り込んだ戸部の視界に、金色の光を纏った森がぐるぐると回った。



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