証 4




「…んせい、戸部先生!」

 薄目を開ければ、見慣れた同僚の顔が驚くほど近くにあった。鼻が付きそうな距離に思わず跳ね起き……るつもりがやはり力が入らず、無様に崩れ落ちる。
「そんなに驚くこたないでしょうが」

「…や、まだ先生」

 呆れた風に自分を見下ろす細い黒装束はほとんど闇に沈んでいて、時間の経過を嫌でも知らされた。

「しんべヱと喜三太が泣きながら、あんたが帰ってこないって言うもんだから来てみたら、やっぱりこんなところで行き倒れだ」

「…面目ない」

 夜目の効く戸部には、この暗闇でも山田の表情が手に取るように分かって、ひたすら首を垂れるしかない。

「そんなことだろうと思って、おばちゃんに握っていただいたんだ」

 ため息と共に渡された大きめのおにぎりを二つ、それこそ脇目もふらぬ勢いで腹に収めた。
 食い終わると多少元気が出て、ふらつきながらも立ち上がった差しだされた手を思わず払い除ける。その途端足元の根に躓いて、情けなくも肩を掴まれ助けられてしまった。

「さっきまで倒れていたお人が無理をしなさんな」

 山田の声に苦笑が混じっている。口の中でもごもごと礼を言うと、不意に山田の表情が引き締められた。

「戸部先生」

「はい」

「あんた、握り飯は学校から持って行ったでしょう」

「……やってしまいました」

「あげた?」

「うむ」

 はぁ、と盛大なため息が聞こえる。

「ご自分の体質を知らぬ訳ではあるまいに」

「……」

「何か理由があったのだろうとは思いますがね、戸部先生、」

 ぐっと山田の声が低くなった。

「あんたのその体質で食わないのは自殺行為みたいなもんでしょう。うちは生徒に何をしてでも生きのびる術を教えてる。先生のあんたがそんなでは困る」

 戸部はただ頭を垂れ、それをどう受け取ったか、ともかくも山田は表情を和らげた。

「まあとにかく、学園に帰りましょう。以降こんなことは無いように願いますよ」


 山田の後についてすっかり暗くなった山道を辿りながら、戸部はぼんやりと頭を巡らせる。
 己は生きる気が無くて食わないのではなかった。むしろ腹を空かせることは己にとっての生きる証左であり、生に直結している。あのときそう反論しようと思えばできたはずなのだが、そうしなかったのは反駁するのを潔いと思わないからだけではない。
 なにかが引っ掛かって、声が出せなかったのだ。
 剣の道に生きていた頃。独りで、いくら抱いても冷たい愛刀だけを友として、時には何日も誰とも会わず一言も喋らず山を彷徨った。腹が空けば木の実や干し飯を貪り食い、空腹と満腹の往復に時間の経過を感じていた。
 それに比べて今はどうだ。同僚がいて、寝る場所があって、今日のようなことが無ければ三食飯が出る。なんて快適で、退屈で、張り合いのない日々。かつての己が見たら、腑抜けになったものだと笑われるに違いない。
 それなのにどうしてこんなに満ち足りているのだろう。どうして学園に帰れることをこんなに嬉しく思うのだろう。

「喜三太としんべヱが全部話しておったから、きっと金吾に叱られますよ」

 前を行く山田の声がわずかに笑っている。そういえばあの二人にも心配をかけた。
 そう思ったとたん、先程から掴めるようで掴めなかったもやもやの正体が見えた気がした。

 己に縋りつく暖かさ。
 小さな手の柔らかさ。
 戸部せんせい、と名を呼ぶ高い声。
 思わず小さな頭に置いた手は、日差しを呑み込む髪の毛の熱に驚かされた。
 そしてまっすぐ向けられるあの笑顔。
 刀を両手で抱えて走り寄ってくる、幼い弟子の姿も重なった。

 嗚呼。

 空腹に証を求めずとも、ここにあるではないか。
 子どもたちに触れ、触れられること。あのはちきれんばかりの生命に日々出会うこと。
 あの温かみも体重も、己がからだで受け止めること。

 それが生きている証でなくてなんと言えよう。


 藪を透かしてぼうと滲む学園の灯りに改めて腹が鳴って、山田がやれやれと笑うのが分かった。
 自然と足が速くなる。
 いざ帰ろう。子らの待つ園へ。



    <了>

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