Act.4 「Winding Road」
部屋から仙蔵の熱と質量が失われ、それを埋めるかのように回想がやってきた。
影も形もないはずのそれは俺をせめぎたて、取り巻き、窒息させようとする。
あいつが振り向いた時、猫に声をかけたかと思った。しなやかな黒髪に吊り目。なによりも毛を逆立てて警戒するようなその態度。
それでもそれは俺の古い友人に変わりなく、やせぎすの身体に驚いた俺はあいつを飲みに誘った。近づこうとすれば身を引き、常に探るような目を向けていた美しい獣は、それでもあっさり俺の家についてきた。なにもしないのか、と聞かれた時には驚いたが。
俺の給料では二人分の食費とあいつの薬代を賄うのは難しかった。あいつが後生大事に持っていたくしゃくしゃの処方箋には、とんでもない額が書かれていたのだ。だがあんなに傷だらけで、それでも頼れる手を必死に捜している男を放り出すなんて出来やしない。
だがいつからだったか。あいつのいる部屋に帰るのが嬉しくて仕方なくなったのは。
電気が点いた部屋。おかえり、という声(時にはただの唸りだったこともあるが)。靴箱の向こうから顔を出す黒髪の揺らぎ。
だが仙蔵と言う生き物はかくも美しく作られていたが、一皮剥けば意外と短気で強情なさみしがりやでしかなかった。喧嘩をすれば絶対に譲らないし、すぐ倒れるくせに意地を張るからどれだけ肝を冷やしたことか。
そういう無理がたたってしょっちゅう熱を出してはいたが、いつかの晩はこのまま蒸発して溶けるのではないかと思ったほどの高熱だった。
一晩中魘された上朝になっても熱は下がらず、休むと言った俺をあいつは無理やり会社に行かせた。
うわの空で仕事をして飛ぶように帰ってきた俺が見たのは、電気が消えたまま静まり返った部屋。暗がりに呼びかけても応答はない。震える足で部屋に入った時、背後でドアが開いて、けろりとした顔の仙蔵がいた。
コンビニアイスを手に「なんて顔だ」と噴き出した仙蔵は、まさしく破顔というにふさわしい笑い方だった。何のたくらみもてらいもない、無邪気な笑顔。心臓が跳ねた。
仙蔵が俺の部屋にいる。そう思えば、この世の宝を洞窟に隠し持っているような後ろめたさと恍惚がやってきた。その洞窟を守るためなら何だってできた。上司が理不尽な要求を出そうと、密かに隠している宝を思えば何のことはない。
だが気が付けば俺は甘やかな空想と自己満足の中にあいつを押し込めて、生身の人間として向き合うことを忘れていたのかもしれない。ある日から目に見えて思い悩むようになったのに、その理由に思い至らないどころか、問いただすことすら出来なかった。
そうして夢は泡と消え、秘密の洞窟は殺風景な部屋に戻った。
猫は所詮猫なのであって、人が留めることなどできやしない。
俺と仙蔵の思いはどこかですれ違い、かけちがえたボタンは元には戻らない。分かっているのだ。だが頭では分かっていても心が嘘だと叫ぶ。
何もない空間に目線であいつの身体の線をなぞっては後悔が募った。この部屋から仙蔵の残像が消えないのと同じように、俺はいつまで経ってもあいつや、あいつのいた生活のことを思い出すのだろう。だがあの身体を抱きしめていた夜と同じだけのスピードで時間は流れ去り、ぬくもりは急速に消えてゆく。
どうしてあの手を離してしまったのだろう。強がりはきっと見抜かれていた。
そうして呆然と手を見詰めて、どれほど経った頃だろうか。窓ガラスを叩く雨音に我に帰った。
仙蔵は傘も持っていなかったはずだ。濡れて冷えたらまた熱を出すだろうに。
そういえば仙蔵はちゃんと残りの薬を持っただろうか。心配になって見れば白い袋があった空間はぽっかりと空いている。
そのラックの底に小さな紙を見つけてあっと声をあげた。
処方箋。
震える手で拾い上げると、裏に何か文字があるのに気が付いた。その走り書きを読んで、かあっと目が熱くなる。強まる雨音がドラムのように脳で響いて、決断の時を叫ぶ。
嘘をつくな。諦めるな。意地を張ってどうする。
ついに俺はその紙片をくしゃりと握りしめ、玄関へ向かって駆け出していた。
『強情で不器用な文次郎へ。
これが最後だと思うから、これだけは言っておく。
伝えたいことはちゃんと言葉にすること。
泣くんだったら枯れるまで泣くこと。
またお前が意地を張っていると思うと、心配で眠れやしない。
だからありのままのお前でいられるような、誰かいい人を見つけて、私を安心させてくれ。
ありがとう
立花』
ああ、意地っ張りなのはどっちだ!
Act.5へ mainへ