Act.3 「C7」


 やろうか、と言ったけれど、首を振られた。だから今、私は彼の腕の中に収まってその胸が上下するのを感じている。
 このまま永遠に朝がこなければいいのに。そう強く願えば願うほど、秒針の音がやけに大きく響く。失われる一瞬一瞬が愛しく、悲しくて仕方がなかった。

「世話になった」

「いや」

 ありきたりすぎて滑稽な挨拶をして、私はアパートのドアを開けた。早朝とはいえ6月ともなれば随分蒸すはずなのに、さっきまで感じていた文次郎の体温に比べれば風は冷たくて、Tシャツと薄い上着一枚の身はわずかに震えた。文次郎には肉を食わないからだと言われるけれど、脂身の多いものを食べると途端に気持ち悪くなる体質なのだから仕方がない。
 私に続いて踏み出そうとした文次郎の前で、強引にドアを閉めてやる。寸でのところでそれは止められ、顔幅分開いた隙間から鬼のように必死な形相が覗いた。可笑しくて小さく噴き出した私を睨みつけ、慌てたような声で何のつもりだ、と問う。

「見送りは結構」

「しかし」

「ここまでだ」

 ここを越えたらきっと別れられなくなる。私は自分が案外心弱い人間だと知っているし、文次郎、お前もそうだろう。
 ドアから手を離すと文次郎はドアを開け放ち、戸口に立って私を見送った。

「無理すんなよ」

 お前が言うか、しかもそんな、へたくそな笑顔で。
 さよなら、と言った声は割れていて、文次郎に届いたかどうかわからない。
 ドアに背を向けて、蛍光灯の切れかけた廊下を歩く。

 滑稽なほど胸は痛み、そのくせ涙は一滴も零れなかった。今日はどこで寝ようかなどと考えて、その薄情さに歪んだ笑みが漏れる。
 ろくに働けやしない身体のくせに、使いようによっては日々の食べ物と寝床をもたらしてくれるのだ。文次郎が心配することなどなにもない。こんな生き方しかできないけれど、それでも意地汚く生きようとしている。
 大丈夫、私は強い。心配なのは文次郎、お前を忘れてしまうことだけだ。

 ひとけのない路上に靴音が響く。明け切った道には他に人影がなく、私のいる世界だけが切り取られたように浮いている。
 文次郎がアメリカでの研修の話を断ったと聞いた時、この身の罪深さに愕然としたものだ。
 留守番をしていた休日の昼間に訪ねてきた、文次郎の同僚だという男。咄嗟に友人だと名乗った私に、文次郎を説得してくれと頼んできた。帰れば昇進が待つ、またとないチャンスだと。断ったのはまた妙な気遣いや意地があるに違いない、だから考え直すようにと。
 男の口から会社での文次郎を初めて知った。部長からの筋の通らない指示にただひとり反論して、一時期は来る日も来る日も営業所の清掃だけをさせられていたこと。その部長が降格されて、文次郎が守った得意先が今や大成長したこと。その間決して不満も洩らさなかったこと。
 男の口調の端ばしには尊敬と親愛の情が滲み、その温かさが私を灼いた。
 もう一度頭を下げて男が帰っていった時には、体中がひりひりと痛むようだった。私のせいだ。私を残しておけないから文次郎は受けて当然の報いをふいにしたのだ。
 同僚からあんなにも慕われながら、私に時間と未来を奪われた、哀れな文次郎。

 鼻の奥がつんとするのは雲の上の雨の匂いだろうか。
 このまま甘え続ければ、彼は健康すら失ってしまうかもしれない。
 ぽつり、ぽつりと路上に染みが生まれ、やわらかな水音が鼓膜を浸してゆく。
 空から降るこれは私の涙だ。弱い私の涙。



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