Act.2 「鏡」


 告げられた言葉に二の句が継げない、とはよくあるパターンだが、俺が「わかった」と言ったのは実際は5秒もしないうちだったらしい。
 止まったかに思えた心臓は今になってやたら早く動き出し、てのひらに汗が滲んできた。言葉が明快単純だったせいで、悲しいほど理解は早く追いついて、それでも脳が状況を認めたがらないのか、血が逆流するような感覚に襲われる。
 生体活動が激しすぎて糸が切れそうなほど熱い体の芯とは逆に、末端は凍りついて冷たく、少しも動かせなかった。
 そんな風に固まった俺を尻目に、彼はゆっくりと立ち上がり、コップをとって水道水を注いだ。そういえば薬局の営業時間に間に合わなかったから、薬はあと二日分しかないはずだ。取りに行かなくてはと考えたところで現実がその思考をあざ笑う。もうそんな必要はないのだから。

 机に出した薬を選りわける背中はすんなりとカーブを描いている。それから弓がしなるように逆に反り返った曲線を、上から下に目線で辿った。触れれば壊れてしまいそうな細い身体。水にぬれた唇。日に当たらない白い肌。これでもこいつを拾った時に比べたら、大分ましな顔色になったものだ。
 明日。明日からどうやってこの男は生きてゆくのだろう。ちゃんと薬を飲むのだろうか。
 そういえば、ずっと側にいてやりたくてこの家に招いたのに、二人分の生活費と薬代を稼ぐつもりで仕事をして、逆に随分と寂しい思いをさせたのではないか。昼や真夜中に発作が起きた時、こいつは一人で耐えたのだろう。その時不甲斐ない俺を呪っただろうか。

 仙蔵はコップを洗い、ちらりと俺のほうを見た。仙蔵が薬を飲むようにと買ったコップだ。俺が頷くと、きちんとそれを布巾で拭いて、いつの間にか部屋の隅に出してあった鞄に仕舞った。
 それから室内の洗濯紐にかかっているTシャツと下着を自分の分だけ取って、それも畳んで入れた。
 もともとほとんど着の身着のままで来たのだから、それほど荷物は多くない。それでも狭い室内から自分のものを回収してはぼろぼろの鞄に入れてゆくのを、俺はずっと目で追っていた。
 目が離せない。いや、離すものかと思う。

 殺風景な部屋に、白いシャツを着て浮世離れした造形の仙蔵はひどく場違いに見えた。それでも仙蔵が動くたびその空間にかすかな波が生まれては、空気を伝わってりんと音をたてるようだった。
 だがそれも今日までだ。明日、この部屋は息を止める。

 薄い布地に浮かび上がる肩甲骨が、細い背中の上で蝶のように動いている。そのたびにシャツの裾はかすかに上下し、震えるように軽やかに振動を生む。
 意外と張った腰まわりから、すとんと落ちる足の線。あんなにぴったりとブルーのジーンズがはりついて、窮屈ではないのだろうか。それを聞く機会も永遠に失われる。
 せめて、網膜に焼き付けておきたい。仙蔵がドアを開けて出て行く時に、みっともない真似をしなくて済むように。
 せめて、仙蔵を笑顔で送り出してやりたい。そうすれば仙蔵もきっと笑ってくれるだろう。
 仙蔵が笑えば俺も笑ったし、俺が苦しい時は仙蔵も眉をひそめて苦しがった。俺たちは似ても似つかないけれど、たしかに仙蔵は俺の鏡だった。



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