いつか消える光を愛すること、手放すこと、描くこと、夢みること
「別れよう」
ひとことで時を止めるのに充分だった。
心臓が止まって、もう二度と動き出さないのではないかと思われたほどの長い間のあと、それでも時計の針は進み続け、夢でないことを知る。
「今、なんて」
「出ていく。おしまいにしよう」
仙蔵がいなくなる。考えただけで耐えられないと思うのに、なぜか唇はかすれた音を紡ぎ出した。
「わかった」
Act.1 「人魚の恋」
文次郎に会ったのは、ちょうど二年前の今頃だった。桜も散ってしまって、梅雨にもまだ遠い半端な時期。
中学が一緒だったとはいえほとんど記憶は薄れていたが、向こうから声をかけてきてくれた。そして気が付いたら荒川の土手のラーメン屋で並んで座っていて、やはりなりゆきで同居することになっていた。
出勤する文次郎がシャツに袖を通すのを、私はソファでぼんやりと見ている。
あのシャツは一年前、一緒に買いに行ったものだ。彼は高いと渋ったけれど、白無地に濃紺のステッチが気に入って無理やり買わせた。
ちゃんと寸法をとってもらったはずなのに、手首の周りが風を含んでふわりと膨らんでいる。そういえば出会ったころに比べて随分と痩せたように見える。隈もひどい。まあこれは昔からなのだが、それにしても濃すぎやしないか。
しかしそれも当たり前なのだ。機械部品の会社に勤める一方で、深夜に倉庫のバイトも掛け持ちしていれば、今みたいに欠伸くらいするだろう。
私が寝ている間に出ているつもりだろうが、眠りの浅い私はその度に目覚めては寝ているふりをする。一度テーブルの上に丸められた給与明細が置いてあって、それで私は深夜の外出のわけを知った。
文次郎が着替え終わって、昨日コンビニで買ったらしい蒸しパンをかじりだす。唯一私にできることといったら美味しくも無いコーヒーを淹れることくらいだから、なるべく彼の起きる時間までには起きるようにはしていた。
今も彼は私の差し出すマグを受け取って、蒸しパンと交互に流し込む。喉仏が動くたび、私のコーヒーが彼の胃に落ちてゆく。あさっての朝、彼はこのコーヒーの苦みを思い出すのだろうか。
じゃあ、と言って文次郎は軽く私の頭を撫で、上着を羽織って立ち上がった。見送ろうと立ち上がると、手を振って制される。いつものように薬の残りを確認し、薬局の営業時間と自分の残業を秤にかける姿に胸が痛んだ。なにも知らずに出てゆくのだ。私が今日、帰ってきた彼に何を言おうと思っているのか。
のろのろと靴を履く背に駆け寄りたい衝動を抑える。どう見ても疲れているのに、ついに弱音ひとつ吐かなかった。私の後は誰がその肩を抱くのだろう。
もし今この世を去ったとしたら、きっと未練たらしくあの肩に寄り添おうとするだろう。
けれど私は生きている。生きているからこそ離れなければならない。文次郎の荷物にはもうならない。
背広の背中を呑み込んでドアが閉まる。明日あのドアを開けて出てゆくのは、彼ではなく私なのだ。
文次郎、私のことは忘れてほしい。
ひどい恩知らずにひっかかっていたものだと思って、憎んでほしい。
そして出世をして、ちゃんと恋をして、ごはんとみそ汁の朝食を作ってくれる人と結婚して、子どもをつくって両親に顔を見せてやってほしい。
そして自分の人生を歩いていってほしい。
だから、どうか悲しまないで。
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