深更。暗い廊下を人影が行く。
影は灯火も持たず、足音ひとつしない。ただその存在を知らせるのは、さらさらと耳を掠める衣擦れの音だけである。
ようやく影は立ち止ると、やはり音も立てずに襖を開け、その中へ身を滑り込ませる。
室内もやはり暗闇であり、空虚なばかりの沈黙にしんと冷えていた。
やがて、中央の燭台がぼうと橙色の光を宿した。闇に慣れた目にはまぶしいほどのその小さな灯りは、先ほどの影ひとつを浮かび上がらせる、と思いきや、影はひとつではなかった。
ふたつ、みっつ、よっつ。
長い影をいくつも壁に映して、灯火が揺れる。それを合図にしたかのように、次々と控えめな明かりが生まれ出る。
無人と思われた室内には、壁際はもちろん梁の上にまで、一様に黒い装束をまとった忍びたちが息を潜めていたのだ。
その中心にいるのは衣擦れの主、上質そうな寝着を纏い、ほつれひとつない髷を乗せた大柄な男である。
「お待ちどうさま」
身なりに似合わぬ子供じみた声の男は、白い歯を見せて笑う。
闇の底を照らすがごとく反射するどんぐり眼は誰あろう、七松小平太その人であった。
どかりと胡坐を組んで座り込んだ小平太の周りに、数人の忍びたちがにじり寄る。うちのひとり、髪に白いものが混じる忍びが重々しく頷いた。
「ご苦労」
小平太はそれに会釈で返す。
「なんの。窮屈な殿様暮らしにも慣れましたから」
あのぼさぼさの髪と埃だらけの顔で、学園をめぐる山野を駆け回っていたのは何年前だったろう。随分前から小平太はこの城で、若君の影武者として生きている。
そして時々こうして、忍び組の会議に顔を出すのだった。
とはいえ型どおりの定期報告を終えれば、城から出ることのない小平太の役目はそれまでである。彼は壁際に退いて、同僚たちが近隣の情勢について知りえたことを交換するのをただ眺めていた。
どちらかといえばがさつな性格である小平太ははじめ、城育ちの殿の影武者などとても勤まらぬと思った。
だが武芸百般に興味があるという若君は、体格といい太い眉といい不思議なほど小平太にそっくりで、それを目にしてしまえば彼自身、その任に一番ふさわしいのは己だと認めないわけにはゆかなかった。
よそよそしい絹布団の下、かつて一人で聞いた夜の森のざわめきや、冷たい地面の匂いを懐かしく思わぬと言えば嘘になる。
だが七松小平太という存在を抹消し、城と城下を往復するだけの生活はすでに苦ではなくなっていた。意思を持たぬ。忍びとはそういうものなのだ。
「そういやあ、イッポンタケの出城が壊滅した話、聞いたか」
「あそこは今川の領地に近いからなあ」
「まあ、東国の騒乱がこっちに来るのはまだ先のことだて」
「それにしてもあんなに早く落ちるとはな」
若い忍びたちは好き勝手に戦乱の世情を噂する。
内容に似合わず気楽な噂話はいつものことだが、小平太はそこに薄様のような予感を感じとった。かすかな期待と共に耳をそばだてる。
「もう少しふんばってくれるものと思うていたが」
「相手方に相当な手練れがいたと言う話だ」
「忍びか」
「おお、そうだ、またあいつが関わっていたらしいぞ」
「例の若いのだろう」
「ああ、なんと言ったっけ、ほらあのお貴族様みたいな名前の」
「見た目も派手だと聞いたぞ」
「一度手合せ願いたいものだ」
「やめとけやめとけ、お前なんぞ一撃で首掻っ切られるぞ」
「あ、言いやがったな」
満足げな息を吐き、まるで妙なる演奏を聴くように、小平太は壁に頭を預けて目を閉じた。
さざなみのように囁かれるその名は、耳管を震わせ食道を通って腑に落ちて、小平太の心に風を起こす。
その風は、息を切らせて深緑の袖を掴む、愛しい後輩の前髪を揺らすあの風であった。
滝のおとはたへて久しくなりぬれど名こそながれてなほきこへけれ
(滝は流れなくなって長く経つけれど、たとえ目に見ることは叶わなくても、その評判はいまだに私の耳に届くのです)
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