Sub Rosa



 夕刻、猫が部屋に入ってきた。


 ぴし、と障子を後ろで締め切ってから、部屋の隅に行きうずくまる。
 真黒い毛並みも艶やかな、大きな猫。

 猫にしては大きな図体が、まさに猫のような静かさで背の後ろを通り過ぎ、油壺の光を揺らす。
 長次はまたか、と思ったがこれは猫であるので放っておく。

 小平太は鍛錬に出ていない。恐らく今晩は遅くなるまで帰ってこないだろう。それを勿論分かっているのだ、分かっていなければ入ってこない。
 薄暗い部屋の隅に凝った気配、だが後ろは見ないようにして、手元の書物を一葉めくる。
 構おうと手を伸ばせば、この気難しい猫はあっという間に摺り抜けてしまうだろうから。他に行くところもないのに、この部屋から逃げて行ってしまう。
 それでも一応気になってそっと肩越しを振り返れば、深緑の忍着に身を包んだ美しい顔立ちの猫が立てたひざの上に顎を載せて、放心したように畳の目を見つめていた。



 四年の終わりごろ、じんじんと寒い夜に音も無く障子が開いた。流れ込む冷気に眉根を寄せて見上げれば、寒さからなのか赤みを帯びた鼻の先が、いつもより一層血の気の薄い顔の上で目立っていた。

「私のことは気にするな、そうだ、野良猫か何かだと思え」

 彼らしい傲岸な言葉遣いであったが、ちょっと触ればばらばらに砕け散ってしまいそうにぎりぎりまで張りつめたその調子に何も言えず、長次はひとつ頷いた。
 い組の優等生が、課題中の事故で子供を手に掛けたのだと聞いたのはそれからしばらくのことであった。
 以来、長次が独りでいる時、この部屋には時々猫が来る。
 ただ、隅の方でじっと座っている時もあれば、両手に顔をうずめて嗚咽を噛み殺している時もある。猫の気が向けば、岩壁のように黙り込むだけの長次に向かってぼつぼつと人語を喋ることもあった。
 半刻もすれば、いつの間にか消えている。
 六年長屋の、それも無口で何を考えているか分からないと怖がられている己の部屋に来る者など滅多にいないから、好きなだけ居ればいいと思う。
 想い人であり最大の好敵手でもある同室の男には無論、他の誰にもこの気高い生き物は涙など見せないのであろうと思えば、どこか優越感も湧く。だが、こうして彼の部屋が避難場所でいられる日ももうあまり長くは残っていない。常に頭を高く上げ、辺りを不敵に睥睨している猫は、そうなった時何処で泣くのだろうとふと不憫に思った。



 ただ鼓膜を騒がせるのは、時折紙のめくられる音。

 一層暗くなる部屋に、ぽたりと水滴が零れた。




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