>不在
目を覚ます。
隣の布団はたたまれて、昨日のまま。一寸も動いた気配はなかった。
ちらりとそれを横目で見て、仙蔵は起き上がった。まだ薄暗いが、障子の向こうには時折誰かの影がよぎる。ひそやかなざわめき、釣瓶のかーんという響き、慎ましげな水の音。かすかに鼻をかすめる甘い味噌の香り。
ひとつ伸びをして、名残の熱で誘惑しながら足に絡みついてくる布団をはがしてたたむ。隣のものより無造作に重ねられたそれは、体温と湿気をおびてふくりと呼吸した。
障子を開ければ、露の匂いをのせた朝の空気が押し寄せてきて鼻の頭が冷たくなる。縁側に一歩踏み出して、あまりに冷たかったので少し躊躇した。後ろ髪を引かれる気持ちで後ろを振り返る。
仙蔵の布団は半分だけ開けた障子から差し込む光に浮かび上がり、隣の四角い山は、より一層濃くなった蒼い闇に溶けていた。
仙蔵はふん、と鼻をならして、障子をすべて開け放った。
>いとしの
立花仙蔵。
麗しの君。冷静沈着、頭脳明晰の優秀な忍び。
はっ。
あのわがままで自己中心的で無茶苦茶で、傲岸不遜で自信家で冷笑的で可愛げのかけらもなくて、すぐに不貞腐れるわ物は投げつけるわ、人は足蹴にしていいものだと思ってやがるわ、朝に弱くて寒さに弱くて、そのくせ他人の前じゃ強がって、負けず嫌いで気分屋で気まぐれで、俺を罵倒し倒したと思ったら寂しいだの何だの言いやがって、挙句の果てには照れ隠しに宝禄火矢投げるようなあいつをよく知らないヤツの言うこった!
>望月の侯
今宵は満月。
ここ数日の重苦しい天気が嘘のように奇跡的に空には一片の雲もない。あまりにそれが明るいので、せっかくの晴れ間というのに他の星々は光るのをやめたらしい。
このような夜は、裏山へ続くあの道は、路面の数限りない石ころがぴかぴかと白く光って一本の銀糸のように見えるだろう。頭上の木の葉は一斉に風になびいて陰影を覆し、月影を揺ら揺らと土に落とすのだろう。池の水面は数多の光の粒に彩られ、その真ん中にもうひとつの月を浮かべているだろう。
こんな晩に鍛錬とは笑わせる!
こうこうと光を浴びてランニングでもしているか。
あるいはかの詩人のように池にうかぶ月でも取ろうとして、鏡のような光のかけらを纏っているか。
見違いようもない的に向かって、安っぽい輝きを跳ね返す手裏剣を投げているか。
何が忍びだ、全く滑稽極まりない!馬鹿だ馬鹿とは思っていたが、その姿のなんと愚かなことよ。
お前の一挙一投足は銀の輪郭に浮かび上がり、その目も鼻も口も白ら白らと月の光にさらされている。
だからこんな晩は文次郎よ、私にその顔を見せていればよいのだ。
>くらい
灯りを消してくれ。お前の顔が見たい。
わけの分らんことを。
見慣れた仏頂面なぞいらん。この指が辿るお前の顔、知るのは私だけ。
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