〜以降6い祭投稿作品〜
(先に楊野、「その薄膜を突き破る、冷たくすべらかな質感について」をお読みください。
>お前にこれをやろう
そのかんざしを贈られたのは、つい昨日の夕刻のことであった。そのときのことを思い返すに仙蔵は忍び笑いを禁じ得ない。なにせあの鬼のようなと形容される潮江文次郎が、その鬼のような形相そのままにちいさいかんざしなんぞを握りしめて、聞いた瞬間噴き出してしまうような(実際仙蔵は遠慮なく噴き出したのだが)かぼそい声で彼の名を呼んだのだから。
鉄のそろばんやら鉄粉やらを弄くり忍具に親しんだその手には洗っても落ちない鉄の色がところどころしみついている。その中であまりに華奢なそれは一際黒い己を主張していたのだった。千鳥を象った先端には小さな緋いざくろ石がつけられてともかくも彩りを添えているものの、赤と言えば華やかな猩々緋や品のよい臙脂といくらでもあるだろうに、よりにもよってどぎつい緋色なぞ仙蔵の好みにはない。
趣味が悪いわけでもない文次郎が何だってこんなものを選んだのか、一瞬彼は目をしばたいた。いきなり、それも女に贈るような品物を差し出されたことより先にそれを怪訝に思ったのだから、あの時は自分も混乱していたに違いない。
「なんだこれは」
「やる」
「それは分かった。しかし、」
「使うならそれにしろ。他は許さん。だが」
目を伏せ、早口で吐き出された言葉は定かではなかったが、仙蔵の耳にはこう聞こえた。
「使ってくれるなよ」
訳のわからんことを、と訝しんだ声はもはや、鍛錬に向かうその背中に届かない。
左手に押し付けられたそれは、血色の悪い仙蔵の掌の上でじんわり温かった。贈り主の体温を宿した鉄の肌を見ていて、ふと思いだしたことがあった。
一週間ほど前だろうか、授業が延びたために人もまばらな食堂で、い組の彼らは夕食をとっていた。話題はその日使った暗器のことに及んだ。斯様に脆い仕掛けの小さな武器が実際に役に立つものか、と疑う文次郎は、無骨だが万能で強靭な苦無の素晴らしさをとうとうと語った。こうなると仙蔵は彼の鼻っ柱を折りたくもなるというもので、無益なことと知りつつもつい議論に乗ってしまうのだ。
「お前はそう言うがな、たとえばこの箸だ」
そう言って、骨ばかりになった魚を所在なげに突いていた自分の箸を示す。
「こんなものでも目を突けばかなりの衝撃を与えられるし、毒でも塗ってあれば相手の腹に突き刺すこともできよう」
見る間に文次郎の魚の目はつぶれ、身は皮から押し出されてぐちゃぐちゃになった。
それを嫌そうに見ながら文次郎がうなる。
「確かにそうだが、敵を捨て身で倒して何になる。ひとりと相対するばかりとは限らんだろう」
「でなければ道はひとつだ」
箸の先端を自分の白い喉にあてる真似をした。
「…箸を持ち歩く忍びとは笑わせる」
「箸と思うな、たとえばかんざしと思えばよい」
「そんなものを持っているのか」
「持ってはおらん。だがいずれ必要になるだろうよ」
「ふん、忍びたるもの舌を噛み切るくらい覚悟しておけ」
鼻で笑う文次郎に軽く腹が立ったので彼の魚を味噌汁につっこんでやり、文次郎の非難の声をおかずに白飯を完食してその場は終わったのだった。
べっ甲や木彫りでは変色が目立ってしまう。だが鉄は、肝要を肚に収めて語らないあの男に似てこの用途には向いている。
いつのまにか夕刻の淡いあかりはすっかり消え去って、灯火ひとつない部屋に彼一人が坐していた。
左手の物体は温かさを失った代わりに闇を吸い取ったらしく、黒々とした輪郭を脈に合わせて蠢動させている。どくん。どくん。鋭利な切っ先を指先にあてれば、ぷつりと黒い玉があふれ出た。灯の下なら、千鳥にぶらさがるざくろ石と、はてどちらが赤いのだろうか。どくん。どくん。血を吸った鉄の塊が、急にじんわり熱を持つ。どくん。どくん。心の臓から指先までつながるこの命、それを絶つのは、己の血潮より高いあの体温。
その日を思って仙蔵は、かすかに愉悦した。
>そのときまで
細身のくろがね、血を凝めたようなざくろ石。かの人の白い喉に鮮やかに対比する。
食堂で見たあの光景。
いつの間にか箸は鉄のかんざしに姿を変えた。とろり糸引く死の蜜を、その切っ先に纏わせて。
舌を噛み苦痛に歪んだ死に顔を遺させるくらいなら、自分が手を下せばいい。
その場に居合わせることが出来ぬなら、せめてあの小さな鉄が、自分の代わりとなるように。
同時に彼は、あれを購った露天商のひび割れた声を反芻する。
「ざくろ石。古来から、持つ人の身を守るとされた貴石」
>痕
殴る。蹴る。咬む。そうして彼は、同室の男にその証を刻みこむ。
いつか忘れられてもいいように。ある日古傷をなぞって、ふと彼の顔が浮かぶように。
>火中の栗
立花仙蔵の細い項や腰を見ていると、意外と節の目立つその指もなにもかも一緒に、強く強く抱きしめて折ってしまいたいと、そのような衝動を感じることがある。
生唾を飲み込んで目をそらす自分に、おそらく仙蔵は気付いている。
知って、ニヤリと笑って上目遣いに身を寄せてくるのだから始末が悪い。
>よばう
「もんじろう」
「なんだ」
「なんでもない」
振り返った男は少し眉をひそめたが、よくあることなので背を向ける。
「もんじろう」
「なんだ」
「なんでもないと言っている」
「そうか」
また背を向ける。彼は今、読んでいる課題図書があと少々で読み終わりそうなのだ。
「もんじろう」
「なんだ」
今度は顔は向けないが、それでもやはり律儀に返事はした。
「もんじろう」
「おう」
「もんじろう」
ぱたん。
本を閉じて向き直る。
「どうして俺の名を呼ぶ」
「呼んでは駄目か」
「用はないのだろう」
「お前の名が好ましいのだ」
「そうか」
と言って彼はまた後ろを向いて本を広げた。
すぐに読みさしの頁は見つかった。
「もんじろう」
「ああ」
くつくつと笑う声がする。
それきりその夜は名を呼ばれなかった。
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