食堂を出て長屋に戻る途中、今度は用具主任に呼び止められた。その細長い顔はいつになく眉が下がりきっている。

「立花くん、きみは作法委員長でしたね」

「はい、そうですが、何か?」

「四年い組の綾部喜八郎くんは作法委員だったと思いますが、委員長のきみからもひとつ言っておいてくれませんか。のべつまくなしに穴を掘られると補修が追いつかないのです」

 ああまたその話か、と思った心中を察してか、吉野の語調がわずかに強くなる。

「私や用具委員長の留三郎くんが言っても彼は聞く耳を持ちませんから。きみにもすこしは後輩のことに責任をもってもらわなければ」

「はい」

「頼みましたよ」

 もう一段眉をぐっと下げて、吉野は帰っていった。
 綾部の穴掘りはあの子にとって必要なのだ、ということを仙蔵はうっすら理解していたから、度が過ぎた分をたしなめることはあっても穴掘り自体を止めさせるのは本意ではない。大体忍びのたまごなのだから、おなじたまごの掘った落とし穴にかかるほうが悪い。
 そもそも自分が言って聞くようなら、毎度委員会に遅刻する彼を藤内に探させる派目になどなるものか。自分に言って如何とする。これ以上綾部をどうしろと言うのだ。


 そして文次郎はやはり部屋にいなかった。
 角を合わせてきっちり畳まれた布団が、もう何日も変わらず部屋の隅に控え目に積まれている。
 違っていた点はひとつだけで、彼の無駄なく整頓された机の上に、小さな桃色のちりめんの袋が置いてあった。
 ああこれはたしか、と仙蔵はぼんやり思い出す。思い出すまいと意識のどこかが明滅するが、その光に気付く間もなく、鮮やかに記憶が蘇ってしまった。
 これは昨日、文次郎に渡してくれと、ひと学年下のくのいちから頼まれたものだ。
 どうせ部屋には帰って来ぬからと、坐学の後たっぷり皮肉を言って、たしかにあの男に渡してやった。それがなぜ、この机の上にちょこんと鎮座しているのだろう。
 考えるまでもなく、あ奴は帰ってきたのだ、この部屋に。この包みを後生大事に持って、それを無くさぬよう部屋に置くためだけに。自分に顔も合わせずに。

 頭に血が上った。

 苦無を握って、隅の布団に覆いかぶさる。真一文字に表面を切り裂けば、切り口からじわりと綿があふれ出た。さらに苦無を振るう。人の肌から血がにじむように、布団の中からは綿がじわりと顔を出す。何度も何度も切りつけて、舞い散る埃にむせながら、それでも苦無を突き立てる。いつのまにか手ごたえを感じないと思ったら、綿の塊の中を苦無でかき混ぜていた。

「気が済んだか」

 聞きなれた声がして振りかえると、後ろに同室の男がいた。
 咄嗟に苦無を捨て、立ち上がって突き倒す。馬乗りになって殴った。
 仙蔵を取り囲み押し潰さんとする叫び声は、どうやら自分の喉が震えて出しているようだった。容赦なく突き立てる拳を、文次郎は巧妙に急所を避けるがそれだけで、顔中にあざが浮かぶのにもかかわらず、がら空きの仙蔵の腹に反撃のひとつも来ない。何発目かにふりあげた拳が行き場を失って、だらりと落ちる。初めてまともに文次郎の目を見ると、その目に映る自分の顔は泣きだしそうに歪んでいた。
 文次郎が不意に身体を起こしたので、仙蔵はバランスをくずして、ちょうど彼の太ももの上に座る形になった。
 とっさに逃げようとしたが、文次郎の腕が体に回される。

「仙蔵」

「気安く名を呼ぶな」

「仙蔵」

「この馬鹿もの」

「うん」

「なぜ反撃しない」

「してほしいか」

「いい加減反撃しろこの意気地なし」

「なあ仙蔵、俺を殴って気が済むんならそうしろ」

「……もん、」

 呼びなれた名のはずなのに、唇が震えて力が入らない。

「悪かったな」

 違う違う違う。お前のせいなんかでかき乱されてたまるものか。自惚れもいいかげんにしろ。抱きすくまれた腕の中でそう叫んだのか、言葉にできたのは胸の中だけで、聞こえていたのは嗚咽なのか判然としない。気がつけばしゃくりあげて泣いていた。

「さみしかったか」

 ぶんぶんと横に首を振る。

「あの包みか」

 黒髪がふり乱れるのにも構わず、さらに大きく首を振る。

「仙蔵、あの包みは」

 言うな、聞きたくないと耳を塞いだ仙蔵の手はそれより大きな手に優しく包まれて浮かされ、耳との隙間にあたたかい息を感じる。

「あの包みは俺の組紐だよ。先日演習中に、髪をまとめる紐が切れて困っていたくのいちに貸してやった。それが返ってきただけだ。ちゃんと説明しないで、悪かった」

 文次郎の声は心地よく、ぐちゃぐちゃだった仙蔵の脳髄をゆっくりと冷やしていった。言葉の内容など頭に入らなかった。ただその響きだけが鼓膜を通り、脳へ到達し、血液にのって体中をゆっくりと巡って筋肉を弛緩させる。
 広い肩にぐったりと頭をもたせかけると、文次郎の忍着から汗と埃の匂いが鼻孔に沁みとおった。久々にこの匂いと熱を近くに感じたような気がする。顎が持ち上げられ、口づけられる間も仙蔵はされるがままでいた。髪を梳く文次郎の指が心地良かった。



「新野先生によればね、生理的な問題で視界に異物がちらつくように感じることがあるらしい。他の目の病気のこともあるけど、それは検査したから仙蔵の場合大丈夫だよ。そのうち慣れて、気にしないようになるといつのまにか消えることも多いってさ」

 翌日保健室を訪ねた仙蔵に茶を勧めた伊作が、自らも名前入りの湯のみで茶を啜りながらのんびりと言う。

「そうか。残念だな伊作」

「なんでさ」

「その口ぶりだとお前も治療しようがないのだろう」

「だ、だからって残念だなんて思わないよっ」

 仙蔵ひどい、本心から心配してるのに、と慌てる声と笑い声が重なり、保健室の障子を越えて晴れた空へ昇ってゆく。風が穏やかに吹く夏のはじめの日のことであった。




実話から。目の前に糸くずやゴミのようなものが見えて、視界を動かすと付いてくるのは飛蚊症というらしいです。
伊作の言うように生理的なものは心配無いのですが、他の病気が潜んでることもあるそうなので、
見える影が増えたり視力が落ちたりする場合は眼科に行きましょう……。



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