不如帰



ほととぎす 鳴きつるかたを ながむれば



 名を、呼ばれた。



 文次郎は知らぬ間に下りていた瞼を上げて、素早く四方の気配を探る。だが、殺気はおろか、己以外は人の気配すらせず、ただ初夏の透明な陽光が彼の小さな庵と坪庭に浸みているばかりだった。手入れのされていない庭には露草と昼顔が無秩序に生い茂っていて、その隅に浮かんだ小島のような平たい石の上では、真っ黒い猫が気持ちよく昼寝をしている。気の早い蝉が遠くで必死に声を張り上げ、まだまだ先の同胞の目覚めを待って徒に短い世を費やしている他は、足音一つ、息遣い一つ聞こえない。ことに、あの激しく甘やかな声の主など、影も形もない。

 それもそのはずであった。この地に引き込んで数年、彼の草庵を訪なう旧知の間柄など、とうに絶えた。興のそそられる夜には月を隣に徳利一本ばかしを呑むこともあったが、それ以外は決まり切った起居の全てを彼は独りでこなしていた。感傷だとか孤独だとか言ったものは少なくとも当初はあった気がするがもはや鈍麻して感ぜられない。人生設計をとうに超えて持てあますほかの無い緩慢な生のすえには、打ち捨てられた弓弦のごとくに伸ばされきった怠懈があるだけだ。

 それでも、もし誰かがこの庵を通り掛かって、開け放した障子の向こうに座っている彼を見たら、その佇まいにただ人ならない胆力を感じただろう。
 髪は真っ白になり量も少なくなったが、ひと束のほつれも無く短い髷に撫でつけられており、未だ黒さの混じる眉毛の下にある眼光は針のように鋭く、また毎日剃刀を当てる顔はよく日に焼けて浅黒い。まどろんでいても天を突き刺す如く真っすぐに伸びた背筋は、彼のくたびれた野良着の下に作られた筋肉がまだ現役であることを示していた。  だが、最近は気がつかないうちに夢と現の境に遊ぶことが増えてきた。
 こうして作業の合間に腰をおろすといつも、決まって懐かしい夢を見る。戦場からあがる野辺送りの煙の向こうには、厳しくも暖かい学び舎があり、およそ忍びの秘めやかさとは不似合いな喚声が日向の中で響いている。心地よい朧の中で特に文次郎が面影を求めるのは、気位が高く気分屋なうつくしいかの人である。普段は透き通るように白い肌を玄妙な色合いの薄紅に染めて、言葉にもならず、燃え盛る炎の吐息を文次郎の耳元でついたかの人である。気紛れに理不尽な要求を突き付けては文次郎を振り回した、常に一歩先を軽やかに行くかの人である。剣呑な光を切れ長の双眸にひらめかせて、火傷の走る細い指で十をも殺す兵器をもてあそぶかの人である。そして、つい先ほど文次郎の名を呼んだ、かの人である。

 六年も同室で暮らした彼も、他の同級の者と同じように卒業して道を分かってからは連絡も疎遠になり、ついには消息すら途絶えてしまった。最後に会ったのは何十年と昔のことで、不思議なことに大昔の学園での日々は鮮やかに思い出せるのに、偶然再会したその時のことは茫洋とした青白い霧の向こうにぼやけてしまっている。
 あの時はまさかこれっきりとは思わなかったものだ。だが、彼は墨色の忍び装束を薄暮れに溶かしたきり、あれ以来生きているとも死んでいるとも聞かない。幾人か、親しかった者の訃報は風の噂で伝え聞いた。同輩・先輩だけでなく後輩たちも若いままで文次郎より早くその身を散らした。そして、あの頃の誰一人として予期しなかったことに、忍びの生業に打ち込んだ文次郎がこうしてこの歳まで生きながらえている。かくも運命とは異なものか。

 不意に喉元にせり上がってきた久しぶりの強い情動に他人事のような感動を覚えながらも、文次郎はもう一度庭の猫を眺めた。
 最近よく見かけるようになったこの猫は、どこぞで餌を調達しているものか華奢な体格をしている割に毛艶がよく、その黒々とした毛皮が太陽の下にきらめく様子は、どこかあの友人の自慢の髪を思い出させた。餌付をしているわけではないのに彼の庵に現れるのは、どうやら今まさに占領している平らな石の上が気に入りの様子だからで、そのくせ彼が少しでも近付こうものなら電光石火で藪の向こうへ消えてしまう。
 夕餉の魚でもやれば懐くのだろうが、特に猫が好きなわけでもない文次郎は、猫の気が向いたときにたまに昼寝をしに来るのに任せていた。その気紛れで人をやすやすと近づけない様子を、やはりかの友人と重ね合わせているのかもしれない。

 そこで、猫がぶるりと一つ身震いをし、気だるそうに小さな三角の頭を持ち上げた。金の瞳と正面からかち合う。ふ、とその口元がまるで笑みのように緩まった気がした。と思えば、奥にある尖った歯をむき出して大きなあくびをする。
 馬鹿げた考えというのは分かっていた。猫を友人に重ね合わせるなど。やはり、さびしいのかも知れない。
 だが、と彼は手元の出がらしで薄くなった茶を啜って考える。
 もうあまり長く待つことも無いだろう。一年先か、十年先か。いつかは天ならぬ彼の身を越えていて判じ難いが、今まで待った長さに比べれば残りの歳月はただのひとまたぎに過ぎない。
 胸の奥で希求してやまない、あの暖かな場所に還る日はすぐそこだ。そこで、仙蔵は待っていてくれているだろうか。短気な彼の事だから、あまり気分を損ねていないといいのだが。でないと宥めるのにほとほと手を焼くことになる。


「もんじろう」


 また、あの声が呼んだ。常にどこか一匁ほどの愉悦を含んだ、低く耳に流れ込むような声である。目を上げてみれば昼寝から覚めた猫の姿は既になく、ただその尻尾が通り抜けたと思しき藪の一枝が、風の無い坪庭の中でゆらゆらと手招きしているばかりであった。



ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる



mainへ