午後の診察がひと段落した頃、善法寺が三反田についてくるよう目配せした。
 並んで、伊賀崎の病室に向かう。正直今朝の醜態を思い出して気は重いのだがしかたあるまい。
 扉をあけると、だいぶ頬に血の色が戻った孫兵は上体を起こし、じゅんこのかごに手をつっこんでなにやら楽しそうであり、その様子を見守る竹谷もまた嬉しそうだった。

「おや竹谷、自分の診療のほうはいいのかい」

「今日はもう臨時休診ですよ。急患があったら連絡するよう、一平には言ってありますけど」

 善法寺の問いに、目も向けず竹谷が応える。善法寺はカルテを見ながら続け、三反田はその影になるように立った。

「手当てしたとき、一緒にいろいろ検査したんだけどその結果が出たんだ」

「どうでした?」

 今度は心底心配げな目をまっすぐ向けてくる。

「過労だよ」

 じとっと睨まれ、竹谷は慌てて両手を振った。

「ちょ、誤解ですって!倒れるほど働かせてなんていませんよ!」

「じゃあどういうことだい」

 普段あたりの柔らかい彼だけに、冷たい善法寺の声は相当な迫力がある。答えに詰まって焦る竹谷に、三反田は少し同情したくなった。
 だが目を伊賀崎に向けると、俯いてシーツを弄くる姿に戸惑いを覚える。思わず小さな声でその名を呼んだ。

「孫兵」

「・・・ッ、竹谷先生は悪くないんです!」

 弾かれたように顔を上げた伊賀崎の目は熱に浮かされたようにすこし潤み、頬にはさっと赤みが差す。

「僕が、勝手にしたことなんです」

「孫兵くん、どういうこと?」

「・・・・診療時間が終わって、竹谷先生が帰られた後、僕だけ残ることが多かったでしょう? あの後、先生に内緒でへびやとかげの診療をしていたんです」

 孫兵は今や竹谷のほうだけを向いて話していた。竹谷は怪訝そうにその顔を見つめる。

「竹谷先生の病院は人気だから、ペットの爬虫類も診てほしいって方からよく連絡がありますよね。だけど他の犬や猫が脅えるし、その飼い主さんたちが嫌がるから、うちは哺乳類しか診れないって断っている。けど一年前、僕が一人で片づけをしていたら、イグアナの急患が来たんです。呼吸をしてなくて、一刻を争う状態だった。とても断れなくて僕が診たんです。そのイグアナは手当のかいなく亡くなってしまったけど、」

 思い出したのか、点滴がついてないほうの腕でごしごしと目を擦る。

「飼い主さんにはとても感謝していただきました。爬虫類を診てくれる動物病院は少ないから、ここに来てよかった、って。それで、僕・・・」

「断った飼い主さんたちにこっそり連絡をとって、診ることにしたのか?」

「ええ。もちろん入院はさせられないから、経過観察の必要があるときはそのお宅に毎日通いました。うちの薬や用品を勝手に使った分は、帳簿をごまかしたりして・・・。診察代は頂きましたけど、どうしようもなくて総てとってあります。勝手なことして、本当に申し訳ありませんでした」

 他の三人があっけにとられるなか、ベッドの上で深々と竹谷に頭を下げた。
 じゅんこが動くしゅるしゅるという音だけが控え目に響く。

「まご・・・」

 柔らかい布のような善法寺の声とは違う、低くて小さい、春風のような優しげな声に驚いて三反田は竹谷を見やる。さきほどの消え入りそうな、穏やかな声がこのいかつい体格の獣医から発せられたことが信じられなかったのだ。

「どうして俺に言ってくれなかったんだ。体壊すほど裏で働くなんて。もしお前の身に何かあったら、それこそ俺が一番辛いことなのに」

 言いながらその無骨な手は、俯いたままの伊賀崎の頭を優しく撫でている。

「気づいてやれなくてごめんな。お前、爬虫類のほうが好きだったもんな。診療については考えるよ。犬猫を断る日があったっていい」

「そんな、今だって診察希望がいっぱいじゃないですか」

「他の病院が受け入れてくれるさ。お前が必要なら爬虫類だけを入院させられる部屋も作るよ」

 今度こそ伊賀崎の両目に涙があふれて、ぼたぼたっとシーツに染みを作った。
 善法寺はと見れば、こちらも鼻の頭を赤くしている。何だかいたたまれなくなって、三反田はまたも部屋をひとり出てしまった。



 その2日後、伊賀崎は無事退院となった。じゅんこの籠を大事そうに抱え、竹谷(よほど浦風に絞られたとみえて、こざっぱりしたTシャツに着替えている)に連れられて会計を済ませる。
 竹谷が来てからずっと、今後の動物病院の運営方針について夢中で話していた伊賀崎が、待合のドアを出るところでふと振り向いた。見送りに出ていた三反田に手を振る。

「数馬!」

 にっと笑うさまは別人のように溌剌としている。

「数馬、遅くなったけど、有難う。数馬が気づいてくれなかったらどうなってたかわからないって、善法寺先生が仰ってたよ」

 三反田は顔がほてるのを感じた。ついで、自然と頬が上がる。今自分は微笑んでいるのだろうと思った。
 病院の戸口を出てさっそく何か虫を見つけたのか、伊賀崎のはしゃいだ声が風に乗り届いてくる。

 ああ、願わくば彼と虫との小さな世界が、末長く平和でありますように。彼を見守るあの獣医が、同じくその世界の守り手でありますように。

 じゅんこの動く、しゅるりという音を耳の奥で聴いた気がした。






竹谷は孫に甘い。あとだれか私に数孫を恵んでください。



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