第1章




「潮江先生、お耳に入れたいことが・・・」

 ある朝、夜勤明けで顔を洗ったばかりだった潮江文次郎は、内科助手で医局長補佐の田村三木エ門に呼びとめられた。確か彼は5日連続勤務を終えて昨晩は帰宅したはずだが、やけに顔が青白いな、と思いながら立ち止まる。ファイルを抱えた田村は眉間にしわを寄せて話しだし、つられて潮江は耳を寄せた。

「厚生省の知り合いから聞いたんですが、大学のほうでこの病院を解体しガン治療専門センターにする、という案が出ているそうです」

「何ッ?!」

「今の医師たちは原則異動で、ガンの専門家を招致し、患者も重症患者以外は転院させるとか。それが認可されるのにどれだけかかるか内々に聞いてきた人がいた、と・・・・。」

「しかしなんでまた・・・稗田か?」

「おそらくは。稗田教授は、うちの学部長とは相当確執があるそうですから。例の学会で学部長が海外に行かれて留守の間に、こちらを潰してしまおうという目論見かと」

「木野学長は稗田に甘いからなあ・・・。だがお前、この話他に誰かに話したか?」

「いいえ、潮江先生だけです」

「教授連中はどうした?」

「野村先生は学部長のお供、山田先生はご本人の地元で地域医療に貢献したいと出向されてますし、戸部先生はアメリカかどこかに修行の旅に出ておられます。土井先生は看護学部での講義がお忙しくて病院には顔を出されません。山本先生は産休および育休中で、斜道先生は例の如く静養中です。安藤先生は奥様がウィーン大学に行かれるのでついてゆかれました。松千代先生は院内にいらっしゃるはずですが、誰も姿を見ていません。新野先生は大学内でのこういうことには疎いですし、事務総長の吉野さんは小松田さんに手一杯です。」

「ひ、日向先生と木下先生は・・・・?」

「政府の感染症対策チームとやらで厚生省に」

 看護学部教授の土井ではないが、胃が痛くなるような気がして潮江は顔をしかめた。もう慣れたこととはいえ、ここの教授陣は大事な時にいない。 そんな潮江を見て、田村はなにか躊躇っているようだったが、しかし意を決したように、さらに声を低めて言った。


「潮江先生、今回のこと、稗田の一存とはどうも思えないんです」

「どういうことだ?」

「いくらあのひとが学部長を嫌っていて木野学長と近いからと言って、さすがにこんな大掛かりなことを仕掛けられますか?
稗田のバックには、なにか利益団体が絡んでいる、そう思うんです」

「わかった、三木。このことはとりあえず他言無用だ。無暗に患者を不安がらせたくないからな。当分はお前がちょっと調べてみてくれ。手の空いた時でいいぞ、無理はするな」

 そういって潮江はくるりと背を向けた。すでに役職を2つ兼任している田村はため息をつく。とはいえこの上司が自分の何倍も忙しいことを知っている彼には、何も言えなかった。


 田村を廊下に残して、潮江はエレベーターを呼ぶ。気は進まないが、脳外科の立花にも一応知らせねばなるまい。教授陣が軒並み頼りにならないというこの現状にあって、実質院内を仕切っているのは彼なのだから。
 立花は口も堅いし、冷静な判断ができる男なのだが、潮江をからかうことを数少ない楽しみの一つと考えている節がある。茶化さずに大人しく聞いてくれればいいが、などと考えながら潮江はこめかみを揉んだ。


 田村と潮江が立ち話をしていた角で、パジャマにスリッパで患者になりすましていた(ひっきりなしに要請される手術の立ち会いを逃れる手段なのだ)鉢谷三郎は目をらんらんと光らせていた。
 ひと波乱ありそうな気配は彼の好物である。
 とりあえず不破に話してこよう、そう思った鉢谷は足取りも軽く心療内科専門病棟へ向かうのだった。




「仙蔵、ちょっといいか」

 そういってドアを開けると、目の前にでんと置かれたソファの端から、細い足が覗いているのがわかった。彼らは学部時代からの付き合いだから、こういうときの立花は寝ているふりだというのはわかっている。
 要は面倒な話が嫌いなのだ。



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