平滝夜叉丸の場合
「だーいせいこう」
声を聞かなくとも分かっている。よりにもよってこの優秀な自分が穴の底にいるという、不名誉極まりない状況は誰のせいか。いや、そうではない。常に足元には注意して歩まねばならないのに、あの暴走委員長の鍛錬に付き合ったせいで早く長屋に帰りたい一心、つい注意を怠ってしまった。何をやっても一流のこの私にはあるまじき失態だ。
「たきーーーー?」
大体あの体力魔人の先輩とて人の子、ならばこの自分に追いつけぬはずがない。なのに、なのに。ああ全く不甲斐ない。だが唯一の慰めはこの月影のおかげで、水面に映る顔が常よりも白く、美しかったことである。よれよれのへろへろになりながらも、けなげな私の前髪は完璧に左右対称だった。
「たきってば。怒ってる?」
しかし頬にこびりついた泥はいただけない。早く帰って落とそうと思ったのに、喜八郎のせいでますます汚れてしまったではないか。そもそも喜八郎は課題もどうせ終わっていないのに、わざわざ長屋の前に穴を掘るとはどういう了見だ。今度という今度は代わりにやってはやらんぞ、などとそこまで考えて、ようやく平滝夜叉丸は顔をあげた。
丸く切り取られた夜空の端に、帰りかける綾部の後ろ髪が揺れていた。
「おいっ!!ちょっと待て喜八郎!!」
「おや、起きてたの。あ、でも怒ってるなら先に帰るね」
「それは小言が先に延びるだけだぞ、って違う、怒ってはおらん!だから帰るな!」
裏裏裏山を登ったり降りたり登ったりしたせいで、もうへとへとなのだ。この上自力でこの穴から這い出るとなれば、冷たい水と清潔な布団がますます遠くなり、ひいては髪も肌も傷んでしまう。
「・・・・本当に怒ってない?」
そんなに目を大きくして訊くくらいなら人を落とすなよ、と思うのだが、この同室にそういうまっとうな理論が通じたためしはないので黙っておく。
「本当だ。いくらこの穴が絶妙であろうと落ちたは私の不注意、お前を怒ったりはしないから!」
鋤を置くからんという音がしたところをみると、小言はないと安心したらしい。穴の縁に戻ってきて、泥だらけの手を差しのべながら、ほんとうにわずかに少しだけ弾んだ声で言った。
「よくできてるでしょう? この前滝が言ってた心理を応用したの。
疲れきったところで自陣を見ると、安心してその瞬間気が緩む、ってやつ」
「そうか、さすがは私の助言! この私を落とすなぞ、やはり」

揺るぎない滝夜叉丸。
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